🐎 【1716年・徳川吉宗、八代将軍に就任】
― ここから江戸幕府は“質実剛健”へ生まれ変わる:享保の改革の起点 ―
1716年(正徳6年)——
江戸幕府は一つの時代の区切りを迎えます。
若くして亡くなった第七代将軍 徳川家継 の後を継いで、
紀州藩主 徳川吉宗(とくがわ よしむね) が第八代将軍に就任したのです。
この人事は幕府の歴史を大きく動かしました。
吉宗の登場によって、以前の政治を担っていた 新井白石・間部詮房 らは退き、
江戸幕府は“再建モード”へと一気に舵を切ることになります。
ここから始まったのが、
▶ 享保の改革(1716〜1736年ごろ)
です。
◆ 1716年:将軍職が紀伊徳川家へ移る
― 家宣・家継の早世が生んだ「御三家将軍」
七代将軍・家継はわずか8歳で病没(1716年)。
正統な跡継ぎがいない中、幕政は混乱を避けるため「御三家」から新たな将軍を迎えることを決断します。
選ばれたのが、紀州徳川家(御三家)の徳川吉宗。
これは、将軍家の“別家筋”からの将軍就任として
江戸幕府の歴史でも大きな意味を持つ出来事です。
📝 文献による根拠
-
『詳説日本史B』
「1716年、紀伊藩主から八代将軍になった徳川吉宗は…」
-
『日本大百科全書(ニッポニカ)』
「正徳6年(1716)、7代将軍家継の死により、紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍に就任」
◆ 新井白石・間部詮房の退場
― 正徳の治の幕引き
吉宗の将軍就任により、
先代(家宣・家継)を支えた政治家たちは表舞台を去ります。
-
儒学政治の理論家 新井白石
-
側用人として政治を支えた 間部詮房
この二人が退いたことで、白石政治(正徳の治)から、吉宗政治へと大きく流れが変わります。
白石による文治政治の時代は、“ここで幕を閉じる”のです。
◆ 「質実剛健」の象徴・徳川吉宗とは?
― 倹約・合理性・実証主義の改革者
吉宗は、紀州藩主時代から質素な政治運営で知られ、
“米将軍”とも呼ばれた人物。
その政治姿勢はひとことで言えば
質実剛健(しつじつごうけん)
——無駄を嫌い、地に足のついた政治を行う
というものでした。
この姿勢が、江戸の政治を再び強く引き締めていきます。
◆ 1716年、ついに始動:享保の改革
― 幕府再建のための総合政策パッケージ
吉宗は就任の年に、年号を
正徳 → 享保(1716年)へ改めます。
これは単なる改元ではなく、
“ここから政治を立て直す”という象徴的な宣言でした。
📝 文献による根拠
-
『詳説日本史B』
「八代将軍になった徳川吉宗は、1716年から財政の再建と将軍権威の回復をめざす改革に着手した。」
-
『大辞林 第四版』
「八代将軍徳川吉宗が1716年から約20年間行った幕政改革。」
ここから、享保年間を中心に20年前後にわたる徹底した改革が実施されます。
◆ 享保の改革の主な内容(ざっくりまとめ)
― 幕府の“健康診断と治療”を一気に行う
吉宗の改革は多岐にわたり、日本史の教科書にも必ず登場します。
🔹 経済・財政
-
上米の制(1722)
-
倹約令の徹底(質素倹約)
-
新田開発の奨励
-
目安箱の設置(1721) ← 市民の声を吸い上げる画期的制度
🔹 法制度
-
公事方御定書の編纂(法令の整備)
-
相対済し令(民事紛争の自己解決促進)
🔹 社会政策
-
疫病対策の医療制度整備
-
町火消制度の強化
どれも“現場の声を見て決める”吉宗らしい、理性的で実務的な改革でした。
◆ なぜ吉宗の就任は歴史的に重要なのか?
― 幕府政治が“再生”へ向かう転換点だから
1709〜1716年の正徳政治(白石政治)は文治的でしたが、
江戸社会全体の課題を解決するには不十分でした。
吉宗の就任により、幕府は
-
財政難の克服
-
武家と町人の関係調整
-
法制度の整備
-
農村と都市の再活性化
といった“構造改革”へ踏み込みます。
その結果、江戸幕府は再び安定性を取り戻し、
18世紀の平和と繁栄を下支えする基盤を築いたのです。
◆ まとめ:1716年は江戸政治のターニングポイント
以下にポイントを整理します。
| 観点 | 内容 |
|---|---|
| 将軍就任 | 1716年、徳川吉宗が8代将軍に |
| 政治的背景 | 家継の死、新井白石・間部詮房の退場 |
| 開始した改革 | 享保の改革(1716〜1736年頃) |
| 改革の特徴 | 財政再建、倹約、法整備、現場主義 |
| 歴史的意義 | 幕府の再建と18世紀江戸社会の安定につながった |
つまり、
1716年は「徳川幕府の長期安定期の出発点」とも言える年なのです。