⚔️ 明和事件(1767年)――封じられた尊王思想と、幕末への地下水脈

1767年(明和4年)、江戸の町に静かな衝撃が走ります。
それが 明和事件

一部の知識人による思想活動が、幕府によって「国家転覆の芽」とみなされ、厳しく弾圧された事件です。
しかしこの事件は、単なる思想事件ではありません。

ここには――
幕末へとつながる“尊王思想の原型”がすでに存在していました。


🧠 中心人物:兵学者・山県大弐とは何者か?

事件の主役は、兵学者 山県大弐 (やまがた だいに)。

彼は軍事思想を研究する中で、単なる戦術論ではなく、「国家の正統性とは何か?」という根源的な問いに踏み込みます。

その結晶が著書『柳子新論』でした。

📖 『柳子新論』の核心

山県の主張を整理すると、次のようになります。

  • 国家の正統は天皇にある

  • 武士は本来、天皇のために存在する

  • 幕府政治は本来の秩序から逸脱している

ここで重要なのは、単なる道徳論ではなく、兵学の理論として展開されたことです。

つまり彼は、理念だけでなく「武力を伴う政治変革の可能性」まで示唆したのです。

これが幕府の神経を逆なでしたのでした。


🔥 処罰の実態――思想は“罪”になった

幕府はこれを看過しませんでした。

  • 山県大弐:死罪

  • 藤井右門:死罪

  • 竹内式部:八丈島流罪(途中で病死)

思想犯としては極めて重い処罰です。

当時の老中は田沼意次

田沼政治は経済重視・商業振興で知られますが、その裏側には徹底した政治安定志向がありました。

体制の正統性を揺るがす思想は、芽のうちに摘む。
それが明和事件の本質でした。


🌊 尊王思想の系譜――水戸学との接点

ここで注目したいのが、水戸学との関係です。

水戸藩ではすでに、『大日本史』の編纂を通じて「尊王」の思想が育まれていました。

水戸学の特徴は:

  • 天皇中心の歴史観

  • 忠義・名分を重視する儒学的倫理

  • 国体意識の強調

山県大弐の思想と共鳴する部分は明らかです。

しかし決定的な違いがあります。

山県大弐   水戸学
  武力変革の可能性を示唆    基本は理論的・歴史的研究
  兵学的色彩が強い    歴史学・儒学中心
  個人主導の急進性    藩学としての体系性

 

つまり明和事件は、急進的尊王論が表面化した最初期の政治事件だったのです。

そしてこの思想は地下に潜り、やがて水戸学の尊王論と結びつき、幕末へと流れ込んでいきます。


🌱 山県大弐の思想をもう一段深く

山県思想の核心は、「名分論」にあります。

名分とは、「本来あるべき秩序」。

彼にとって、

  • 天皇=正統

  • 将軍=補佐的存在

でした。

この論理は当時の政治体制を根本から問い直します。

重要なのは、これは単なる復古思想ではなく、“武士道的倫理による国家再建論”だったことです。

つまり山県は、

武士は商業化・堕落している
本来の使命に立ち返るべきだ

と批判していたのです。

この視点は、後の幕末志士たち――
吉田松陰や水戸浪士たちの精神とも重なります。


🏯 田沼時代のもう一つの顔

一般に田沼意次の時代は、

  • 商業振興

  • 株仲間の公認

  • 貨幣経済の拡大

といった「経済の時代」として語られます。

しかし明和事件は示します。

経済改革と思想統制は同時進行していたということを。

市場は自由化しても、政治理念は自由化しない。これが田沼政治の現実でした。


🔥 明和事件の歴史的意義

明和事件は、

  1. 尊王思想がすでに18世紀中期に政治問題化していた

  2. 幕府が思想統制を強化していた

  3. 幕末思想の萌芽が存在していた

ことを明確に示します。

幕末は突然の爆発ではありません。

1767年という時点で、
すでに“正統とは何か”という問いは江戸で燃え始めていたのです。


✍️ まとめ:封じられた火種

明和事件は一見すると小規模な思想弾圧事件です。

しかし歴史の流れの中で見ると――

  • 山県大弐の急進的尊王論

  • 水戸学の体系的尊王思想

  • 幕末の尊王攘夷運動

は一本の線で結ばれます。

明和事件はその最初の“露出点”でした。

歴史は、地下でゆっくり流れ、やがて大河となる。

その源流の一つが、1767年の江戸にあったのです。