3月11日(金)、会議中、小刻みな垂直方向の振動に、違和感を感じ、‘地震か‘と認識した。
その後、横に大きく揺れ始めた。いつもの地震とは明らかに違う、その揺れは、私の中に恐怖心を
生成し次の行動へと促した。円卓の下にメンバー全員で避難。どれくらい振動しいただろうか、
大きな揺れが止んだところで、会議室を出ると、オフィスの様子が見えた。
引き出しが飛び出して、デスクの上においてある多くのものが床に落ちていた。
みな窓際から眼下の町を見下ろしていた。となりの低層ビルでは、非常階段を使い
外に逃れる人々が見えた、駅からは地上に出てくる人がみえた。幹線道路では、車が路肩に
とめられハザードの光が点滅している。煙が上がっている場所あった、風になびくグレーの筋が災禍
の空に怪しげな形をなしていた。とても大きな災害であることが伺えた。
家族は無事であろうか。
家族へ電話するが、一向につながらない。大丈夫だろうか。高層階にいることで私自身不安でもあった。
はやく家族の無事を知り、家族にも自分が無事である事を伝えたい。そう強く思った。
ゆれが止まず、船酔いに近い不調を感じた。仕事上持ち場を離れるわけにはいかず、地震直後
から業務を遂行した。でも、家族の安否が不安で集中できない。
オフィスの電話から自宅へ電話し、40分程度たったあとであろうか、ようやくつながり無事を確認した。
無事でいてくれて、本当によかった。
余震が続くなか、ビルのゆれも大きく、早く避難したかったが、我々のチームだけは業務上、非難できない。
ガラス越しに、山々を見ることができる。遠目には、何事もないようにみえたが、あれだけの揺れだ、
登山道が破壊されていないだろうかと心配になった。1週間後から、勤続10年の特別休暇を2週間とる
ことになっており、私は奥多摩の山々を縦走する計画を立てていたのだ。
避難できない不安、余震が続き大きく揺れ続けるビル、クリティカルなミッションから、気持ちが参って
きたなか、ネットのニュースで東北地方や沿岸地域の被災状況を知った。津波がそれらの地域を襲っている
というのだ。大きく恐ろしい津波が。どうか、みな無事で逃げてほしい。そう、願った。
しかし、yahooの速報で、被害状況や津波の高さなどの情報が知らされるや、やるせない気持ちになった。
我が国の同胞たちが、危機に瀕している。我が国の土地が自然の猛威の前に飲み込まれてしまった、
とても胸が痛く、悔しい気持ちがあふれでてきた。
きっと、わが子を守ろうと命をかけた同年代のパパやママ達がいただろう、戦争の苦しみを乗り越えられて
21世紀まで生きのびてこられたお年寄りの方々もたくさんいただろう。夢に向かって日々を一生懸命
生きていた子供達もいただろう。。。そういった方々のことを思うと、とても胸が痛く、やるせない気持ちと悔
しい気持ちがあふれ、涙がでてきました。
私にはお金もないし、人々を癒す事ができる技能もない、直接手を差し伸べる事も難しい。だから心はとも
にある事を伝え、励ましたい。