いまやってる仕事のネタになるかもと思い、人間の生きる意味について寝ながら考えていた。
正気に戻ってみたら結構恥ずかしい記述になるだろうが書いておくことにした。
個人的には、人が生きる意味はない。ミジンコとかキュウリと同じような存在のただの生き物が人間だけ生きる意味が欲しいとか、あるはずだとか、どんだけ上から目線なのだ?とか、そんなに生きるのが心細いのか?と思う。
まぁ生きてるからには、他を傷つけず他から傷つけられないよう慎重に自分が楽しく生きられるように、そしてできる限り他人に依存しない自分に合った生きる意味をこっそり持つということはしているが。
‥そのうえで、大手の宗教だとどう教えているのかさらっと調べた。
仏教ベースだと、本来生きる意味なんてのはない、だから自分の生きる意味を作ろう。みたいな考えかた。
キリスト教だと、最初に出たのは、そんなに難しいことはあまり聞いてほしくないが‥しいていうなら他者のために生きることが、生きる理由であるとのこと。
‥難しいというのは、たぶん人間が他の生物と比較して大きな価値を持つといいたいのだと思う‥それと、人間は他人によりかかるような集団で生活しているわけなので、他者のために生きること。ということもわかる。
が、そもそも人によって価値観が違うし、その瞬間の状況によって他者が何を求めてるのかわからないので一方的になにかしても迷惑になりかねない。 本当に他者のためと考えるのなら、多くの人の英知の結晶である最新の国の法律で決められたことを完全に守ることが一般的に誰にでも理解できる他者のために生きることになるのでは‥?と思う
ほかの宗教だと、生きる理由を明確に定義できてるのだろうか。
偶像崇拝系だと、直接話したこともない先祖か、伝説のおじいさん・おばあさんの考えた規律を守りましょう。それがあなたの生きている意味なのだから。みたいな感じなのだろうか。‥昔のホラー映画とかによくあったパターン。
それはそれで責任を未来に投げっぱなしで、未来でバグが起きても当事者誰も責任取れないみたいな感じにならないか?
ただ、部分的に当たっているようなノストラダムスの予言書みたいなのを根拠にして、生きる意味を個人から集団にすり替えて何らかの大きな目的のために数多あったはずの人々の人生の終点を一つの終点に矯正してしまうとか。たまにバグがでたとしてもそれは予言の枝葉であると言い、無理やり通せなくもなさそうだし‥しかしありがちか。
もう少し考えてみよう。 治ってから。