最近次のような言葉をよく聞きます。


「伝統とは革新の連続である。そのままそっくり引き継ぐのは伝統ではなく『伝承』である。」


誰が初めに言ったのかはわかりませんが、本当にそうなのでしょうか。


まず一文目、「伝統とは革新の連続である」

これは、問題ありませんね。個人の感想は自由です。

そして、実際にも、一見変わらずありつづけてもののなかにも、その時う代時代で、多くの革新が潜んでいるのです。


日本の陶芸を見てみても、須恵器から始まった系譜は、新しい窯の技術を取り入れ、穴窯、登り窯、電気窯などと新しい特徴をもつ焼き物を手に入れましたし、絵付けの技術を取り入れて、消えない、はっきりとした絵を施せるようになったり、茶の湯が広まった時代には茶器が、西洋の文化が広まった際には洋食器が日本で作られるようになったり、大量生産できる機会が作られれば、安価で規格の整った製品が大量に購入できるようになったりと、確かに「伝統」と呼ばれる陶芸の中にも、多くの革新があるということに気付います。



では2文目、「そのままそっくり引き継ぐのは伝統ではなく『伝承』である。」



これはどうでしょうか。ちょっとひっかかる部分があります。


伝統と伝承という言葉についてインターネットでも少し調べてみると、「伝統」は政治的(な政策としてのもの)であり、「伝承」はそうではなく、またそのために、実際に使いわけられているということがわかります。


確かに、実感として、「伝統」と聞くと「伝承」というよりもなんだか格調が高い感じがします。一方、「伝承」のほうはというと、「伝統」よりも身近な、もっと民間に根ざした感じを受け取れます。

実際に使いならせれている言葉としての「伝統」と「伝承」の違いについてはそのような感じでしょうか。


そして、もしかたら、そのように、「伝統」のほうが格調が高いように聞こえるがゆえに、「そんなものは『伝統』ではなく『伝承』だ」という掃いて捨てるような言い方に納得させられてしまう人が多いのかもしれません。


次に、「伝承」と呼ばれるものが、果たして、「そっくりそのまま引き継ぐ」ものなのかということ。


民俗学ではさまざまな「伝承」と呼ぶものを資料としていますが、例えば、折口信夫のいう「周期伝承」は「年中行事」とも呼ぶことができます。

年中行事といえば、お正月や節分など一年のうちのある時期に毎年行う行事のことですが、その年中行事の中の端午の節句を考えてみると、日本に今につながる端午の節句の行事が伝えられたのは奈良時代以前、いわゆる五月人形、鎧兜を飾るようになったのは武士の時代、鎌倉時代から、こいのぼりが一般的に広まったのが、江戸時代になってからということ。


また、「口頭伝承」(口承)と言われるものには伝説や、昔話、そして、諺などが分類されます。

ためしに昔話について考えてみると、昔話というのは本来、大人から子供へ、口から口へと伝えられたものであるのですが、その語りの場において、語り手は、その場面や聞き手との関係、聞き手の反応などにあわせて、その語り口や、ストーリーまでも変えることがあった極めてライヴ感のあるものであったようです。そうして、昔話は次世代に伝えられるうちに、いろいろな変容が加えられ、また、一つの話からいろいろな形の物語が派生していきました。


こうして、見てみると、端午の節句も昔話も、「伝承」と言われるものながら、多くの変容、言い換えれば革新といえるものをうちに含んでいることがわかります。

このことから、「そっくりそのまま引き継ぐのは『伝承』だ」というのは無理があるのではないでしょうか。


そもそも、「伝統」は政治的で、「伝承」はそうではないというのなら、「伝統」というのは「伝承」の中から政治的に利用できるものを汲み出したものといえるでしょう。

その点から考えても、「『伝統』ではなく『伝承』だ」ということはできないでしょう。


それでも、まだ、「言葉は生き物であるから、『伝承』の意味を変えても問題ないだろう」という反論がありそうです。


確かに言葉もその時代時代に合わせて意味や使い方が変わってゆくものです。


ですが、すでに「伝統」と「伝承」の使い分けはあり、習慣的にも使い分けているというのに、伝統を「革新の連続するもの」、伝承を「そのまま引き継ぐもの」と勝手に定義し、その上、その自分で勝手に作ったその定義に則って、伝統とも呼べそうなものを、「伝統ではなく伝承だ」と荒らかに決めつけるのは、一度に飛躍しすぎじゃないかと思うのです。


また、そのような決めつけはすでに伝承と呼ばれているものに対して誤解を与える見方を示してしまうので良くないのではないのかと思うのです。

人によっては伝承と聞くと「なんだ伝統ではなく伝承か」と落胆するようになるかもしれません。

言い出した本人にはそういうつもりはないのかもしれませんが。


「伝統とは革新の連続である」の一言で止めておけば何も文句はないのですが。







ひも作りは手ひねりの方法の一つで、手ひねりの中では最も一般的な技法のため、多くの陶芸体験施設で行われているものです。


まず、器の底を作り、その上にひも状にした土をドーナツ状に何段か積み円筒状にしていきます。

紐を積み上げ作ってゆくのでひも作りと呼ぶわけです。



というわけで、まず、底を作りましょう。


土をとって手回しろくろにのせ、手のひらで叩いて薄くのばして、器の底にします。


この時の土の量は、実際に必要な量より少し多めのほうがやりやすいと思います。叩いて伸ばしただけでは綺麗な円にはならないと思いますので。

大きめに作って余ったら切る。

すこしあそびの部分を残して、切って形を直しながら大きさを直すのです。



底の大きさは、焼くと縮むことを考慮して作ってください。

また、今作っているのは、器の内側だということを忘れないでください。決して、高台を作っているわけではないのです。成形時には主に器の内側を作り、削って外側を整えるというのは、電動ろくろで成形するのと同様です。


切るときは、ろくろを回し、作った底に竹べらなどを差し込めば綺麗な円になるのですが、慣れるまでは大変です。

コツとしては、回転の方向に合わせ無理をせずに少しずつ、何回かに分けて、また、切っている最中に手や竹べらが左右にブレてしまうと綺麗な円にはならないのでしっかりと固定することです。


底の厚さは、削って高台を出すつもりならその分厚めにしてください。また、削って形を整えた後、高台をつける方法もあります。

それから、土を叩いて薄くするのは土を締める効果もあるので、あらあじめその薄さに切って作るというのは避けたほうが無難かと思います。



そうして、底を作ったら、その上にひも状にした土を乗せて円筒状にしていきます。


ひもはなるべく全体が均等な太さに。細すぎると何段も積まなくてはならず大変です。太すぎると均等に薄くするのが大変です。


長さは一周できるくらいあればいいのですが短いよりは長めに作ったほうが良いです。余った部分は切れば良いのですから。ここでも「大きめに作って余ったら切る」ということです。

紐は軽く押し付けるように上に載せましょう

紐を一段上に積んだら内側も外側も土を上から下に下から上に伸ばして隙間のなくなるよう底と紐をくっつけます。

この時、内側から力を入れすぎて、外側に開いていかないように気を付けてください。

まず細めに作ってそれから広げていくとうのは電動ろくろと同じです。

広げすぎたものを細くするのはてひねりでも難しいことです。


一段目の紐をしっかりとくつけたら二段目の紐を作り同様にその上に積みくっつける。

この時、一段目の紐に対して内側に少し重なるように乗せるとつなぎやすく広がりにくいでしょう。

二段目ができたら三段目、四段目と続けててください。


十分な高さが出てきたら(広げて低くなる分を考慮しても少し高いほうが良い)、手やヘラを使って薄く延ばしながら広げて形を整えていきます。

少しずつ、様子を見ながら広げてください。先ほども書いた通り、広げすぎたものを細く戻すのは難しいです。

また、器の腰にあたる部分は薄くしすぎないように気を付けてください。そこが薄いと上部を支えきれなくなりへたってしまいます。これも電動ろくろと同じですね。


最後に口の部分を整えましょう。

おそらく口の部分がガタガタになっていると思います。それはそれで趣があるととらえることもできますが、気になる方は弓などで切って直してください。大きく作ってあると余分なところが切れます。

切るときは底を切った時と同じように、ろくろをまわし、手をぶらさないように固定し少しずつ切るのが良いです。もちろん、1mmも乱れず綺麗にというのは簡単ではありませんが。

そして、なめし皮などで口を滑らかにしておきましょう。


それから、ろくろに張り付いている底の部分をしっぴきで切れば、ひもづくり法の成形過程は終了となります。


言葉だけではわかりにくいと思うので、気が向いたら画像を載せていきたいとも思うのですが、果たしてその日はくるのか。

また、ここで書いたことはひも作りの基本的な作り方です。徳利を作る際など、順番の違うことなどがあります。



国立大学の人文社会学部の廃止案によって、Twitter内で、多くの文系養護論を目にした。

ただ、実態はどうなのか、今になって言葉だけで養護しているだけではないのか。
実際に、文系の学問や文系学部出身者は社会的に重用されているのか。

それとも、いつか来る不測の事態では、文系の学問や文系学部出身者が「役立つ」というのだろうか。「いつか役立つ」と思うのであれば、国や地方自治体のみならず、もっともっと、一企業が、一個人が、その保護に尽力していても良いのではないだろうか、あるいは、これからでも、すべきなのではないだろうか。

陶芸においても似たようなことは言えよう。

もし、陶芸において支給している補助金等が廃止されて、多くの陶芸家が陶芸の職を失おうとしていたら、きっと、多くの人が、「陶芸は世の中に必要だ」と言ってくださることであろう。

だが、そう言いながら実際には、家にあるのは、機械で作られ、機械で絵が描かれた食器ばかりで、花瓶が家に置かれていることさえないことも多いのではないか。

陶芸家の作るものは、技術や手間暇を考えられることもなく、機械製品と比べられ、高価だと買い叩き、陶芸教室でも、ただ体験する2時間のみを見て、なぜそんなに高いのだ、なぜ設備があるのにできないのだと憤ることはないか。

「陶芸は必要だ」というであろう人々は果たしてそれを重用し、保護しているのだろうか。



陶芸家が世の中に必要がないことは、陶芸家自身、ひしひしと感じている。

それでも、そんなことに時に目を背けながら、時に立ち向かいながら、どうにか、社会に必要になろうと、誰かの役に立とうと文字通り必死になって作品を作ったり親しんでもらおうとしている。


それでも、もし、陶芸家は無駄だからと補助金等が廃止になるのなら、それは努力が足りないからだと言われるだろう。その通りなのだろうが、それは、「やはり陶芸家は必要がなかったね、役に立たないんだね」で済ませられる問題なのだ。実際に役に立ってないから無駄とみなされたわけで。



陶芸家を必要だと言ってくださるのはありがたいが、言うだけでなく、動いてくれたらもっとありがたい。


陶芸家が必要かどうかは、必要とされる側の陶芸家自身も変えうるけど、直接的には必要とする方、作品を買う人次第なのではないか。



同じで、文系学部やその出身者を必要としているのは、「文系養護論」を唱えている人たちのはずだが、その人たちは実際に文系を必要として重用しているのか、そうでないのなら、やはり、文系は必要のない学問なのではないか。

ただ、必要のないという事実に目を背けているだけだったり、体裁を気にして、養護論を唱えているだけではないか。