最近、地方の動物を扱った祭り等を、動物虐待だと告発する動物愛護団体があることを知った。

 私は正直理解ができていない。何故なら、祭り等で動物を利用することと、家畜等で動物を利用することの差異が分からないからだ。

 2020年頃の東京オリンピックの準備段階でセーリングの会場に近い江ノ島水族館が、海外の大会関係者らに対してイルカのショーを見せたら動物虐待ではないかという話が出たとも聞く。

 動物を意味も無く蹴ったり殴ったりするということを、動物虐待だとするのであればまだ分かる。しかし、ショーでも祭りでも、無意味に鞭を打ったりジャンプさせたりしている訳では無い。そうすると動物虐待とは、つまり人間の都合で動物に本来的でない行為を強制的にさせること、ということなのであろうか。そう考えると、人間の都合で家畜として飼育され、食肉にされたり、乳を搾られたり、妊娠させられたりすることは、すべて動物虐待ではないのかと思ってしまう。

 動物との共生だ、というのであれば、祭りも家畜も変わらない。なんなら、私としてはペットとして買われる犬猫も、競技用として飼育される馬も、食肉にするために育てられる牛豚も、全部同じだ。

 

 昨今の動物愛護団体の主張を私が理解できないのは、一部の動物だけを問題視して動物福祉を主張することに集約される。

 何故クジラやイルカは食してはいけなくて、牛や豚は良いのか。何故ばんえいや馬追の祭りはダメで、警察犬やドッグランは良いのか。命は平等に大事だと言って菜食主義者やビーガンになるならまだ分かる。それでも、どうして植物の命は大切で無いのかという疑問は残る。

 一部の動物に関わることばかりで、一貫性のある論理的説明が全く見えてこない。

 ヒトという生物は、雑食性である以上は動植物を食べなければ生存できないし、肉体的脆弱性を補うために道具や他動物を使役しなければ生き残れない。その関係性を前提とすると、動物に対して鞭を打ったり調教したりすることは人間にとって必要だ。

 既に機械文明が盛んになった以上は牛馬を使役する必要が無い以上は、馬に関する祭りは時代遅れの不必要な文化であると言うかもしれない。そうすると、動物愛護の観点からは、現存する競走馬等は全て殺処分又は去勢処理し、未来永劫馬を使役しないことが最良ということなのだろうか。野生の馬はほぼ絶滅しているから、馬は極少数が野生で生き残るのが良いのであろうか。馬と人は有史以来共に過ごしてきたのに、今更そんな捨て方をするのか。そうしないとすると、馬という大型動物をペットとして飼育するのだろうか。馬は動かないといけないし、食事も相当量必要とする。道楽で買うにはかなり費用が掛かり、現実的では無いと思う。

 犬だって躾されるし、猫や鳥だって外には出してもらえない。馬に関する祭りを虐待というのであれば、それらペットも虐待だろう。まして、ゴキブリや蚊といった害虫は殺処分されているし、「動物」を人間の都合で大量殺戮していると言える。

 動物の命が大事だ、という前提は賛成できても、昨今の動物愛護団体の言う「動物愛護」は分からない。

 

 私は牛肉も豚肉も、鶏肉だって食べる。魚ももちろん食べるし、植物や種、果実も食す。競馬で賭け事をすることもあるし、雑草を抜くこともある。でも、私は自室に出た蜘蛛やゴキブリを殺さないし、屋外で蚊やハエを叩き殺すこともしない。子供の頃は犬を飼っていたが、一生を飼われた状態で終える愛犬の姿を見て以降、再び動物を飼いたいと思えない。

 命を食し、命を使い、他の動植物を踏み台にして生きている自覚はあるから、ただ不快という理由で殺生をすることはしないと決めた。でも、それは私の考えで、別に他人に強制するつもりはない。

 当事者やその周辺の関係者が、否定的意見を聞いた上でなお開催したい、文化として継承すべきだと判断したのならば、それが法律に違反するものでないのであれば、外野がどうこう言うべきではないだろう。どうしても止めさせたいのであれば、それは法制化を目指すべきだ。一部の人の嫌がらせや、苦情電話等で行動を強制的に変化させるべきではない。それは私刑だ。近代法制国家において許容すべきことではない。

 

 社会には色々な意見があるし、全く価値観の異なる人もいる。そのような中においても社会を維持するために、唯一公正に判断する素材として法律があるはずだ。

 法律として定められていない価値基準に照らして善か悪かを判断するのであれば、それは自分の行動に対してのみにすべきだろう。その価値基準を皆に適用したいのであれば、民主的に選ばれた議会において適正に法制化すべきで、それ以外は価値観の押し付け、独善的行動でしかないと思う。