ちょいとまとめておかないと、自分でも分からなくなりそうなのでエントリー。(笑)
基本、長城での戦闘と全州陥落までは、1月15日のエントリーの年表が一番分かりやすいのかな?
ちょいと修正して、それに付け足ししてみます。

1894年(明治27年)2月15日
古阜民乱勃発。
古阜郡守の趙秉甲は単身逃亡。

1894年(明治27年)2月20日
趙秉甲は全羅監営に逃げ込むことに成功。
しかし、兵を貸してくれという願いは聞き入れられず。

1894年(明治27年)4月25日
一時沈静化していた東学軍の動きが、再び激しくなる。

1894年(明治27年)5月7日
正領官洪啓薫、新任全羅兵使李文泳、壮衛営兵762人、人夫64人が京城を出発。

1894年(明治27年)5月8日
正領官洪啓薫は3隊386人を率い、野戦砲4門、弾薬140箱と共に清国軍艦平遠で、李斗璜が1隊194人を率いて漢陽で、元世禄が1隊247人を率いて蒼龍で仁川を出港。
しかし、清国軍艦平遠は水路に馴れていないため、途中豊島沖で碇泊。

1894年(明治27年)5月9日
漢陽及び蒼龍は一足先に群山着。
それに遅れて群山沖に平遠が半速力で来るものの、水深不足により群山鎮沖合12哩で碇泊。

1894年(明治27年)5月10日
386人+洪啓薫&李文泳は、約100名が蒼龍、2~300名が漢陽に乗り換え、満潮を待ってようやく群山着。
直ぐに全州に向け出発し、朝鮮30里ほど進んで臨陂で一泊。
この時、清国人10名前後が全州に同行。

1894年(明治27年)5月11日
50里進んで大長村で昼飯を摂り、更に40里進んで、夕方全州到着。

1894年(明治27年)5月12日
古阜黄土峴において、官軍と東学軍激突。
官軍大敗。

1894年(明治27年)5月14日
東学軍は南下して、羅州方面へ向かう。
前任監営領将金某が、東学軍の鎮圧について招討使洪啓薫と口論となり、笞刑の後に斬殺されさらし首にされる。

1894年(明治27年)5月16日
招討軍200名が霊光・務安方面に出発。

1894年(明治27年)5月18日
朝鮮政府、御前会議。
高宗、播遷を主張するもやんわりと却下される。
閔泳駿の清国援兵の件も却下され、江華等から援軍を派遣する事を決定。
霊光九岫浦に居た漢陽号が東学軍に襲われ、転運委員金徳容・姜古阜が拉致される。
同時に捕まった日本人乗組員は間もなく解放。

1894年(明治27年)5月21日
援軍の江華営兵等約400人が仁川を出発。
一方、招討軍は新たに200名を霊光・務安方面に出発。

1894年(明治27年)5月22日
高宗が全羅道の監司を罷黜し、前古阜郡守の趙秉甲も捕縛し、その他の貪官汚吏や虐政をした者の罪を問い、慰撫の意を示したという綸旨を頒布して、それでも従わなかったら討滅しろと下教。
招討使洪啓薫自身が200人を連れて霊光・務安方面に出発。
清国士官もこれに同行。

1894年(明治27年)5月23日
霊光襲撃。
公廨文簿が焼かれ、武器・金・穀物・馬が略奪される。
前後して、井邑・興徳・咸平・霊光等各方面に移動し神出鬼没状態であるため、官軍はこれに振り回されっぱなし。

1894年(明治27年)5月29日
この頃、綸旨宣伝官の李周鎬が賊の陣地に行って綸旨を伝えて説得しようとしたところ、説得する前に滅多切りにされて、人馬共に死亡。

1894年(明治27年)5月30日
招討軍、長城付近にて「トロイの木馬」的作戦により、死者数300余りを出し大砲2門と多数の銃を奪われる大敗を喫す。

1894年(明治27年)5月31日
全州陥落。
拉致されていた金徳容・姜古阜が発見される。
高宗が貪官汚吏を処罰する旨の勅諭を発布。
閔泳駿、袁世凱を訪問し内々に援兵依頼。

1894年(明治27年)6月1日
高宗及び閔泳駿が清国への援兵要請を決定。
勿論、5月18日の御前会議で否決されたと思っている朝鮮政府は、誰もこの事実を知らず。
全州では、招討軍が東学軍と交戦し、東学兵を300余名討ち取るも官軍の死者は5~600名。

1894年(明治27年)6月2日
朝鮮政府、御前会議で清国出兵について議題に上る。
「袁世凱に朝鮮軍を指揮させるってどうよ?」という高宗の折衷案も実らず、結局高宗及び閔泳駿が袁世凱への内議を既に終えており、今更覆す事も出来ないと追認する形に。
一方日本政府は、済物浦条約及び高平臨時代理公使の知照に基づく出兵を閣議決定。
巡辺使李元會を初めとする平壌兵等1,100~1,400人が京城を出発。

1894年(明治27年)6月3日
朝鮮政府が清国に援兵を公式に依頼。
この3日夜から4日にかけて、清国軍艦4隻が出港。

1894年(明治27年)6月5日
日本政府、天津条約に基づいて出兵の通知を閣議決定。
大鳥公使、横須賀を出発。

1894年(明治27年)6月6日
東学軍、全州の門外に出てきて招討軍に敗北。
14歳の李福龍を初め、500人を討伐。

1894年(明治27年)6月7日
清国側・日本側、相互に出兵の知照。
この時点で、文中の「保護属邦」を問題視し、日本側は清国側に抗議。
朝鮮政府、清国に上陸差し止めを要求。

1894年(明治27年)6月8日
牙山に清国兵約1,000人が到着。
朝鮮政府、日本に派兵撤回の要求。
この後、再三にわたり同様の撤兵要求が行われる。

1894年(明治27年)6月9日
大鳥公使、先発の海兵隊420人等と共に仁川港に到着。
第二陣の清国兵500人が牙山に到着するも、上陸はせず。

1894年(明治27年)6月10日
大鳥公使、先発の海兵隊420人等と共に京城入り。
第三陣の清国兵600人が牙山に到着するも、これまた上陸せず。
この日から翌日11日にかけて全州で戦闘。
官軍が全州を奪還するも、その際殲滅した東学党は、実は囮にさせられた、ただの全州市民であったとの情報あり。

1894年(明治27年)6月11日
6月9日からこの日まで、順次日本の後続隊が出港する。
大鳥公使、旅団派遣の中止を要請するも間に合わず。

1894年(明治27年)6月13日
日本の第二陣の陸兵800人が京城に到着し、先発の海兵隊と交代する。

1894年(明治27年)6月15日
日本政府、朝鮮の内政改革を柱とする閣議決定。

1894年(明治27年)6月16日
外務大臣陸奥宗光、在日清国公使の汪鳳藻と会談し、閣議決定の内容を伝える。
忠清道監司から、「興徳取報内彼徒百余名直向茂長云百余名又向古阜興徳臨云」との電報あり。

1894年(明治27年)6月17日
大鳥公使は、内乱が鎮定されたのであればそれを目的に朝鮮に来ている清国軍が撤兵すべきであり、それを鎮定の証拠として今度は日本軍が撤兵する手順を決意。


大まかに、こんな感じかな?

さて、今回の連載で分かった点。

一.全州和約について
全州和約は締結されていない可能性が非常に高い。
もし結ばれていれば、高宗等の許可を得ない、現場(洪啓薫等)が勝手に行ったものと推測される。
勿論、日本政府には通知されていない。
仮に締結されていたとしても、洋夷排攘的な条文が全州和約にあるとすれば、駐留する名分は失われない。

二.東学党の乱の発端
苛政と転運事業への不満による。
1月18日のエントリーの「汽船使用器械購入のことなどは、大に不服を訴へ居ると云ふ。」は実に味わい深い。

三.清国と日本の出兵
清国への援兵依頼がそもそも必要無かった。(笑)
日本には済物浦条約及び高平臨時代理公使の知照という大義名分があり、巷間良く言われるような、名目も無くなったのに駐留等の言葉は当たらない。


こんなとこかな?
つうか、長すぎるから漏れもあるかもしれないけど。(笑)
まぁ、みんな呉知泳の『東学史』に踊らされすぎだよねぇ。( ´H`)y-~~


ってことで、本当に東学党の乱(春の部・第一次蜂起)お終い。



東学党の乱(一)    東学党の乱(二十六)  東学党の乱(五十一)  東学党の乱(七十六)  東学党の乱(百一)
東学党の乱(二)    東学党の乱(二十七)  東学党の乱(五十二)  東学党の乱(七十七)  東学党の乱(百二)
東学党の乱(三)    東学党の乱(二十八)  東学党の乱(五十三)  東学党の乱(七十八)  東学党の乱(百三)
東学党の乱(四)    東学党の乱(二十九)  東学党の乱(五十四)  東学党の乱(七十九)  東学党の乱(百四)
東学党の乱(五)    東学党の乱(三十)    東学党の乱(五十五)  東学党の乱(八十)    東学党の乱(百五)
東学党の乱(六)    東学党の乱(三十一)  東学党の乱(五十六)  東学党の乱(八十一)  東学党の乱(百六)
東学党の乱(七)    東学党の乱(三十二)  東学党の乱(五十七)  東学党の乱(八十二)  東学党の乱(百七)
東学党の乱(八)    東学党の乱(三十三)  東学党の乱(五十八)  東学党の乱(八十三)  東学党の乱(百八)
東学党の乱(九)    東学党の乱(三十四)  東学党の乱(五十九)  東学党の乱(八十四)  東学党の乱(百九)
東学党の乱(十)    東学党の乱(三十五)  東学党の乱(六十)    東学党の乱(八十五)  東学党の乱(百十)
東学党の乱(十一)  東学党の乱(三十六)  東学党の乱(六十一)  東学党の乱(八十六)
東学党の乱(十二)  東学党の乱(三十七)  東学党の乱(六十二)  東学党の乱(八十七)
東学党の乱(十三)  東学党の乱(三十八)  東学党の乱(六十三)  東学党の乱(八十八)
東学党の乱(十四)  東学党の乱(三十九)  東学党の乱(六十四)  東学党の乱(八十九)
東学党の乱(十五)  東学党の乱(四十)    東学党の乱(六十五)  東学党の乱(九十)
東学党の乱(十六)  東学党の乱(四十一)  東学党の乱(六十六)  東学党の乱(九十一)
東学党の乱(十七)  東学党の乱(四十二)  東学党の乱(六十七)  東学党の乱(九十二)
東学党の乱(十八)  東学党の乱(四十三)  東学党の乱(六十八)  東学党の乱(九十三)
東学党の乱(十九)  東学党の乱(四十四)  東学党の乱(六十九)  東学党の乱(九十四)
東学党の乱(二十)  東学党の乱(四十五)  東学党の乱(七十)    東学党の乱(九十五)
東学党の乱(二十一) 東学党の乱(四十六)  東学党の乱(七十一)  東学党の乱(九十六)
東学党の乱(二十二) 東学党の乱(四十七)  東学党の乱(七十二)  東学党の乱(九十七)
東学党の乱(二十三) 東学党の乱(四十八)  東学党の乱(七十三)  東学党の乱(九十八)
東学党の乱(二十四) 東学党の乱(四十九)  東学党の乱(七十四)  東学党の乱(九十九)
東学党の乱(二十五) 東学党の乱(五十)    東学党の乱(七十五)  東学党の乱(百)