< 2005年5月のエントリー >
徐々に史料記述が増えてきてますが、一回毎の文章量はまだ少なめで、文体は今より硬い。
時事関連のエントリーも少なくなってきて、歴史メインでしかも史料中心のブログとなり、「読みにくい、わかりにくい、生史料を読むのと同じくらい難しいと大評判」になっていく。_| ̄|○


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(六)

1906年(明治39年)7月3日の第七回韓国施政改善に関する協議会の内容の6回目で、宮中雑輩取締りの話の続き。
伊藤の韓国に対する厳しくも愛情ある側面が垣間見られる。(笑)
ちなみにキモは、高宗の「僕はあんまり干渉してないのに、大臣たちは手柄は自分のものにして、失策は僕のせいにするんだもん。」発言。


自称IT大国の底力

メインは、韓国のサイバー外交使節団という名のサイバーテロ集団VANKの話と、日本海呼称問題。
段々、こういった時事に関する話を排除して史料一辺倒になっていくわけだけど、自分の骨休めだけではなく、読者の方の骨休めのためにも、時折こんなの挟んでった方が良いのかなぁと思う昨今。


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(七)

1906年(明治39年)7月3日の第七回韓国施政改善に関する協議会の内容の7回目で、この回も宮中雑輩取締りの話の続き。
「島夷敵臣伊藤長谷川」の書は確かに高宗自身のものであり、下賎な者の虚説に耳を傾けたからであり、韓国皇室に取っても不忠な者なので、取調の上厳重に処分して良いよという、高宗の見事な責任転嫁を見る事ができます。


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(八)

1906年(明治39年)7月3日の第七回韓国施政改善に関する協議会の内容の8回目。
自分で馬鹿な意見を採用したくせに、推薦者に罪をなすりつけようとする韓国政府。
伊藤に文明国の所業じゃないからヤメレと言われてしまいます。(笑)


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(九)

1906年(明治39年)7月3日の第七回韓国施政改善に関する協議会の内容の第9回。
この回の笑いどころは、伊藤の「貴国に於て、誤て人を推薦するの罪を糺さんと欲せば、其の数、枚挙に遑あらざるべし。」。
お前等、誤った人を推薦しっぱなしだろ、と。(笑)


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(十)

1906年(明治39年)7月3日の第七回韓国施政改善に関する協議会の内容の10回目。
必死に韓国に向かって、「文明国になりなさい」と述べる伊藤。
勿論、無駄な努力。(笑)


北関大捷碑と加藤清正征韓記念碑

北関大捷碑関係の報道を受けて再度アジ歴を見てみたら、目録の文章が『アジア歴史資料センター』で指摘したとおりに修正されてた!(笑)
しかし、「仏玉人」など間違いは沢山あるわけで、牟田昌平、何やってんの?というのが主題のエントリー。(笑)

尚、次期国連事務総長に決まった潘基文(パン・ギムン)外交通商相の、「返還が実現すれば日韓関係のみならず、(北朝鮮との)南北関係の改善にも寄与する」と指摘には、要注目。( `H´)y-~~


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(十一)

1906年(明治39年)7月3日の第七回韓国施政改善に関する協議会の内容の11回目。
これまでずっと続けられてきた宮中取締りに関して、その後どうなったかの史料を含めて解説。
その実態は、入館証の不携帯、貸し借り、偽造ともうボロボロでした。


半島系文化財

何でこんなエントリーを挙げたのかすっかり忘れてるんですが、多分北関大捷碑と加藤清正征韓記念碑の時の報道を受けて書いたんでしょう。(笑)
結局、韓国の体面を重視してやるような「思い遣り」は、無駄って話。


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(十二)

1906年(明治39年)7月3日の第七回韓国施政改善に関する協議会の内容の第12回。
有言不実行の韓国政府を一刀両断にする伊藤博文が見物。


第七回韓国施政改善ニ関スル協議会(十三)

1906年(明治39年)7月3日の第七回韓国施政改善に関する協議会の内容の最終回。
「そもそも韓国の警察がしっかりとした組織であるならば、警務顧問など要らない」と言い切る伊藤が素敵。(笑)
なお、この回で指摘している「表面上許可を与え臣下に撤回させる、あるいは、臣下に指示しておきながら、自分は嫌だけど部下が、というのは、高宗が良く使う手」は、マジで頻出。


二重国籍

1907年、保護国期の大韓帝国の国籍に関する話。
国籍に関する法の未整備もそうだけど、「ウリはロシアに帰化したニダ!ロシア人は治外法権ニダ!」は、キリスト教入信の時にも良く見られた話。
治外法権撤廃に向けて動くのではなく、それを自分らだけ得る側に立とうとするのが朝鮮人。( ´H`)y-~~


知識欲

むしゃくしゃしてやった。
今も後悔してない。(笑)


条約書類発見と玉璽偽造事件(一)

高宗が「第七回韓国施政改善ニ関スル協議会」で焼けたとした外交文書等は、現明洞聖堂で発見されたわけですが、その発見の切っ掛けが、1908年の京城韓美電気会社株式譲渡における委任状偽造事件。
ここで挙げられた、明洞聖堂で発見された一連の外交文書の題目には、目を通しておくことをお奨め。
尤もこの回は、偽造の話にはまったく届かずに、京城韓美電気会社とコールブランに関するお話だけで終わっている。


条約書類発見と玉璽偽造事件(二)

この回も、委任状偽造の話には至らずに、京城韓美電気会社で起きた運賃値上げ事件に関してのお話になってしまいました。
尚、日本の馬鹿マスコミが「醜賊退治」、「在米同胞復讐せん」、「碧眼奴」、「電車焼打」等と、騒動を煽ってくれちゃってます。


条約書類発見と玉璽偽造事件(三)

ようやく、コールブランが電気会社と水道会社の権利の売り込みに来た話に。
最終的に電気会社の権利は、日韓瓦斯会社に移る事になるんだけど、何で史料引用してないんだろう・・・?
つうか、もう『米国人「コールブラン」「ボストウイック」ノ韓国ニ於ケル獲得利権関係雑件』、公開されたかなと思って新しくなったアジ歴で検索かけてみたら、HITすらしなくなった・・・。_| ̄|○


条約書類発見と玉璽偽造事件(四)

この回も寄り道。(笑)
というか、ここまでほとんど本編が無いって話か・・・。
この回は、京城電気会社売渡しに対するストライキ等の騒動の話。
解雇しないという確約だけで沈静化する。(笑)


一次史料への端緒

一次史料に触れるきっかけ作りの話と共に、「日朝盟約」が重要。
ちなみに、最近の「日露戦争物語」は、字が多すぎだと思う。(笑)


条約書類発見と玉璽偽造事件(五)

委任状偽造の話の前に、これまでのエントリーから偽造委任状が使われたと思われる話の纏めと、半島における印綬の大雑把な流れの説明。
今見ると、とてもやる気あるようには見えない俺が居る。(笑)


印綬濫用(一)

この回からは、偽造の下敷きとなる話。
1906年の「第九回韓国施政改善ニ関スル協議会」の引用により、啓字の御印を捺したものを売買してたり、鉱山に関する特許関係の書類に勝手に押してたり好き放題のため、伊藤に激しく突っ込まれている。
印綬に関して、そいういう状態にあったって事。


印綬濫用(二)

この回も、1906年の「第九回韓国施政改善ニ関スル協議会」の引用の続き。
「陛下が非法の行為に出てらるる為、外国人及日本人の間に種々なる紛議を釀し、延て韓国に損害を及ぼすが如きことあり。」という下地があったから、後に偽造事件に至るんだろうと推測。


印綬濫用(三)

この回は、1907年の「第十三回韓国施政改善ニ関スル協議会」の引用。
「宮内府に於ける啓字判の濫用の如き、外人に対する特許売買貸借の証書に、之を押捺交付するに至り」という事で、宮内府で勝手に特許売ったり貸したりした挙げ句、原議も残って無い状態。
誰が許可したかも、本当に許可したかも分からないけど、尻ぬぐいは全部日本。


印綬濫用(四)

これまで例示してきた「啓字の御印」の他に、もう一つ花押が考えられる事の指摘。
ただ、結局ここで挙げられた「趙南昇」が李太王「啓字判文書」を持っており、要するに半島ではハンコや文書管理がめちゃくちゃだという事が分かったに過ぎませんでした・・・。


条約書類発見と玉璽偽造事件(六)

ハンコや書類管理があまりにめちゃくちゃなので、結局高宗が「第七回韓国施政改善ニ関スル協議会」で焼けたとした外交文書を発見する切っ掛けとなった、趙南昇の偽造事件は詳細不明なまま・・・。
ということで、仕方ないので実際に発見に至る過程の話で誤魔化している。(笑)


条約書類発見と玉璽偽造事件(七)

この回は、発見された外交関係文書のその後の取扱に関する話。
最終的には、韓国統監府で引き継ぎするわけですが、崔書勉教授によると何と日本の外務省に持ち出されたそうですが、史料読んでもらえれば分かるとおり、送られたのは目録だけだから。
相変わらず、史料読めないのね。( ´H`)y-~~


条約書類発見と玉璽偽造事件(八)

結局、あまりに混沌としていたため、途方に暮れているウリを見る事が出来ます。(笑)
ちなみにこの電気会社株券売渡委任状偽造事件の容疑者趙南昇ですが、彼のお父さんは、hitkot氏がENJOY koreaに上げた二つのスレッド、【danbokk悶死。 いわゆる純宗遺詔。w】と、【いわゆる純宗遺詔: gammawaveの援護爆撃に応えて♪】で、純宗より死亡していた趙鼎九の息子。

親子二代で偽造話に関係してるとは、おめでてぇですな。( ´H`)y-~~


閔妃殺害事件史料(一)

閔妃関係として、最初に作ったエントリー。
史料は、1907年頃。
露館播遷前後に日本に亡命した者の帰国問題に関連したものでした。
李斗璜・李範来は、王妃事件への関係について証拠はハッキリしてるから駄目、という史料から始まりました。


閔妃殺害事件史料(二)

伊藤博文の「乍去由来韓国の事、理窟計りにも参らず(しかし韓国の事だから、理屈通じねぇかも)」マンセー。(笑)
で、今回の要点は純宗の「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」という言葉ですな。( ´H`)y-~~
勿論、この次の回での指摘通り、本当に目撃したのか、それとも禹範善殺害事件の際にそう思い込んだのかは、常に考慮に入れておく必要がありますけどね。


閔妃殺害事件史料(三)

メインは、1903年に起きた禹範善殺害事件に関する話。
勿論、禹範善・尹孝定・兪相範の3人での話の中での「禹は、旧年王妃を弑せしは自己なりとの意を漏せり」をポイントにしています。
ちなみに、Wikipediaの閔妃の項では、「純宗が放った刺客、魯允明と尹孝定によって暗殺されていた。」とありますが、これは誤り。
高永根と魯允明の犯行ですね。


閔妃殺害事件史料(四)

結局、露館播遷前後に日本に亡命した者等は、特赦を受けて帰国許可が出ます。
で、最後に「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」の著者でもある角田房子に、禹範善の息子を題材として小説を書いたのは何かの予防線ですか?と問いかけて終わっています。


っていうか、『1 明治36年9月16日から明治36年12月2日(レファレンスコード:B03030222700)』とかテキストに起こしてはいないわけだけど、みんな読んでるのかなぁ・・・?