試しにアジア歴史資料センターで検索かけてみた。
検索結果、見づれぇ・・・。_| ̄|○
しかも、「JPEG、JPEG2000に関しては、今後対応していく予定になっております。」って・・・。

なめてんのか、ワレェ!

ってことで、ちょっと馴れるのに時間が掛かりそう。
おまけに再開しても画像リンクは暫く見れなそう・・・。
何か、アジア歴史資料センターの後ろに(アジ歴)とか付いてるし。
そういうの、どうでも良いから!(笑)

仕方ないので別の話。
今日は、以前NAVERにおいて韓国人ID:nominally氏が指摘していた、NAVER日本人にとっては有名な3人李周會(52)、尹錫禹(40)、朴銑(26)の裁判の話をしてみたいと思います。
当該裁判宣告書の記載された官報、陰暦1895年(開国504年)11月14日(新暦1895年(明治28年)12月28日)付は下の通り。

裁判宣告書2裁判宣告書1

まぁ、官報の年数自体が開国504年であるべきところを、開国500年に間違えているのは、ウリナラチラシ的伝統でしょうか。(笑)
では、その邦訳文を。

裁判宣言書

公州府永同郡 日本人雇
被告 朴銑
26歳

漢城府北部壮洞 前軍部協辨
被告 李周會
52歳

漢城府北部弼雲臺 親衛隊副尉
被告 尹錫禹
40歳


右被告たる朴銑、李周會、尹錫禹等に対する謀反事件検事の公訴に由り審理する処、被告朴銑は本来薙髮洋服にて日本人と仮称し行跡訝ヶ敷者なるが、開国504年8月20日暁の事変に被告は日本人と共に乱徒中に混同し光化門より突入せし時、洪啓薫が拒み逆賊と称せし故を以て剣にて其臂を撃ち、直に殿閣房屋に至り坤殿の御所に突進し手を以て髻を捽して軒端に曳至り剣にて胸を揕せし後、黒褖衣にて巻き石油を灌き焼火したりと、弑逆せし次第を手にて形容せしこと歴々たりと云へる金召史の告発に由り被告を拿訊せしに、被告は一向抵頼すれども、掖属の十目を掩ひ難く、証人が丁寧に断言する所なり。
まずは朴銑に関して。
朴銑は元々、散髪して洋服を着てI'm zapaneseしている行いの訝しい者だったが、閔妃殺害事件に関し朴銑は日本人と共に乱徒の中に紛れ込み光化門から突入した時、洪啓薫がそれを拒んで逆賊と言ったため、剣で洪啓薫の腕に切りつけ、直に坤殿の御所に突進してもとどりをつかんで軒端に引いてきて、剣で胸を刺した後黒褖衣で巻いて石油を注いで火を付けた、と。
髻を捽して軒端に曳至り剣にて胸を揕せし後、黒褖衣にて巻き石油を灌き焼火したりについては、対象が明記されていませんが、閔妃の事でしょうね。

で、この弑逆した次第を細部にわたって述べる金召史の告発によって朴銑を逮捕訊問したところ、本人はしらばっくれたが、周囲の目を隠すことはできずに証人が丁寧に断言した、と。
つまり、本人は否認しているのに目撃証言で罪に問われる形になるわけです。

又、被告李周會は本年8月20日暁の事変に、迎秋門より入り直に長安堂に抵り、王太子殿下と王太子妃殿下を保護し即時退出したりと申立つるも、被告が初度の口供中に、忽ち砲聲の闕内に起るを聞き、平服にて光化門に向ひたるに堅く閉ざしあるを以て転じて迎秋門より入りたるに、番兵寂然として許多の闔門にも攔阻する者全く無かりしにより、当日変乱の事故を探究すれば、暴徒の做事設謀は是の如く疏漏なりと云ひしこと理に近からざるの辞にして、再度の口供中に闕内に闖入する際辰居門に至りしに、適々武監10餘名乱兵等に逼逐せられ列砲中危に濱したるを見、高聲にて手を揮ひたるに、彼輩が即時に武監を釈るして他処に散走したるとあり、彼輩猖獗せる場合に当り被告は何の術ありて一揮手一号令にて能く凶徒を禁遏すること是の若く容易なるべきか其由を究むれば、凶徒と締結せし情跡掩ふべからず。
3回目の口供中、凶徒が被告の号令を甘受して解散せしこと事適々湊会して同心之跡を免れ難し。
此れ乃ち、自分が終命之秋なりと自服せり。
続いて3人の中では一番有名な李周會について。
李周會は、事件当日迎秋門から長安堂に到着し、王太子つまり純宗とその妻を保護して直ぐに退出したと言うが、李周會の第一回の供述では光化門は固く閉ざされていたので迎秋門から入ったが、番兵はひっそりとしており多くの闔門でも妨げる者が全く居なかった事から、暴徒の謀計はこのように疎漏であると言うのは、道理に合わない言葉だ、と。
また、再度の供述中では、闕内に闖入する時に辰居門に差しかかった時に、武監10名余りが乱兵に迫られて危機に瀕しているのを見て大声で手をはらうと、乱兵は他へ逃げていったとあり、乱兵が猛威をふるっている時に、何故李周會の一揮手一号令で簡単に凶徒に禁じて止めさせる事ができるのかといえば、李周會が凶徒と組んでいた形跡は隠すことができない。
3度目の供述では、凶徒が李周會の号令を受けて解散したとの事も、また凶徒と組んでる形跡が見られる。
ということで、自白したも同然だろ、と。

つうか、どの辺が「日本が我国のために尽してくれたことは数えきれない。このたび公使以下多数の志士が拘留せられた。朝鮮人として見るに忍びない」として閔妃暗殺の全責任を負い、自分が閔妃を殺害したと供述したんだろう?(笑)
長安堂に行くまでの間、妨げる者が誰も居ないっておかしいだろ?とか、暴徒が李周會の号令聞くのは李周會が暴徒と組んでた証拠とかいう話で絞首刑になるわけですが。

又被告尹錫禹は、本年8月20日午前4時に大隊長李斗璜と中隊長李範来、南萬里が夜演習せよとの命令を承け、所領の兵を率い東別宮より起行し太和宮を守りて春生門より入り、康寧殿の庭に到り兵丁を各処に派遣し、光化門、建春門を巡回して鹿山下に至り一屍体の焼燬せるを見て下士李萬成に詳聞せしに、宮女の屍体を焼きたりと云ひしが、翌21日に聞けば宮中の伝説に、当夜の事変に坤聖陛下は播遷せらるる暇なく又宮女の害を受けし者なければ、鹿山の烟の起りたる処が竟に是れ九疑山なりて、事故当夜大隊長禹範善、李斗璜に請ひ焼餘の遺骸の下体のみを掇取し、五雲閣西峰下に潜埋したりと云へり。
被告が当夜兵を率て入闕せしは、将令を承けたりとは雖ども、情跡疑ふ可きもの多きのみならず、鹿山下の屍体を被告は既に已に十分黙会し居りたるに、至重尊厳の地をも憚らず犯手擅動せしこと、自から大不敬の科を犯せしなり。
最後が尹錫禹。
尹錫禹は、演習の命令を受けて東別宮→太和宮→春生門→康寧殿に来て各所に兵を派遣し、光化門→建春門と巡回して鹿山まで来て、そこで一体の死体が焼棄てられているのを見るんですね。
で、下士の李萬成に詳しく聞くと、宮女の死体を焼いたと述べる。
しかし、翌21日に宮中の伝聞情報で、当夜の事変に際して閔妃は播遷する暇もなく、また宮女で被害を受けた者も無いため、鹿山の煙が上がったところが閔妃の葬られた場所であり、事件当夜禹範善や李斗璜に願って焼け残った遺体の下体だけを拾って五雲閣西峰下に密かに埋めた、と。
尹錫禹が兵を率いて入闕したのは命令を受けたからであるが、行動に疑うべき部分が多いだけでなく、鹿山の死体が誰か分かっているのに至重尊厳の地も憚らずに死体を動かして五雲閣西峰に隠蔽しようとしたことは、自然と大不敬の罪を犯している、と。

以上被告等の犯したる事実は、被告等の右陳供と金召史の告発并対質陳供、及李甲淳、金明濟、李敏宏の供辞を証とし、的確疑なし。
此を謀反條に照し、被告朴銑、李周會、尹錫禹を各絞罪に処す。

開国504年11月13日高等裁判所法庭にて。
高等裁判所検事臨時代理法部検事呉容黙立会宣告す。

高等裁判所裁判長 張博
豫備判事 鄭寅興
判事 洪鍾檍
書記 李徽善
以上3名の被告等の犯した事実は、被告等の供述と金召史の告発、対質陳供、李甲淳、金明濟、李敏宏の供述を証拠として疑いない。
これを謀反条に照らして、被告朴銑、李周會、尹錫禹の3名を絞首刑に処す、と。

ちなみに、高宗がロシア公使館に逃げ込んだ後、1896年(明治29年)4月25日に朴銑と尹錫禹は無罪とされ、補償金が家族に出されたり、官位が復官したりしているわけです。

ってことで、7月21日のエントリーでもつっこんだ、『東亜先覚志士記伝』とその写しである名越二荒之助先生の『日韓共鳴二千年史』の「日本が我国のために尽してくれたことは数えきれない。このたび公使以下多数の志士が拘留せられた。朝鮮人として見るに忍びない」として閔妃暗殺の全責任を負い、自分が閔妃を殺害したと供述した話については、李周會等の処刑日だけではなくその内容自体虚偽の可能性が高いでしょうな。


おしまい。