今日は、連載ちょっと休憩。
で、表題の話。

以前、6月2日のエントリーで関連スレッド「■日本史料に見る閔妃の諡號決定経緯」をあげたわけですが、俄館播遷以降の話について、これまで当ブログで取り上げて来た事もあり、更に分かりやすくしてみたスレッドをたててみました。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1712767

1895年10月8日
事件発生。

1895年10月10日
王后閔氏を廃する旨の詔勅が出ます。
ここで注意したいのが、実は閔妃の死はこの時まだ公表されていない事。

1895年10月12日
庶人になった閔妃に特に嬪号を与える詔勅。
ENJOY日本人の中で、嬪号で有名な人と言えば、【張嬪(LINK)】が居ます。

1895年10月15日
新しい王妃選定の手続きを挙行する布達が出されます。
どうも、王妃の座が不在になった場合、即座に次の王妃を選定するのが慣習だったようです。
この慣習は、後に純宗の妻が戸板喰って死んだ(笑)際にも見られます。

1895年10月31日
井上馨着京。

1895年11月12日
広島地裁での審議終了。
裁判の詳細な経緯が散逸してるので、詳しいことが不明。
予審結審書発行は1月20日に発行。

1895年11月16日
井上馨出京。
主に、各国との調整に手一杯だったようである。

1895年11月18日
総理大臣金宏集、小村寿太郎を訪問。
井上が善後策について何も言ってくれずに帰ったのは遺憾だと、愚痴る。(笑)
同時に、小村に大院君の排除・閔妃の復位・関係者の処罰を希望。
小村は許可。

1895年11月26日
閔妃復位&大院君失脚&趙義淵、権?鎮罷免&李周會逮捕。
これらが同一日なのは、直接の史料はまだ見つけていないものの、偶然の一致ではないでしょうね。

1895年11月28日
春生門事件

1895年12月3日
この日、初めて閔妃の崩御が公表される。
当然、諱もこの後考えられる。

1895年12月22日
高宗実録によれば、この日宮内府から諱「純敬」の案が出る。

1895年12月28日
李周會等に死刑宣告。

1896年2月11日
俄館播遷で、高宗がロシア公使館に引き篭もったので、閔妃の国葬とか全部ストップ。


(約一年間ひきこもり)


1897年1月6日
ロシア公使館での引き籠もりも、そろそろ終了が見えかけたためか、高宗実録によれば議政府から文成・明成などの案が出される。
「文成」が一押しだったらしい。

1897年2月18日
1年に渡る引きこもり生活を止め、ついに高宗がロシア公使館から出てくる。
他国の公使館に王様が1年も籠もってるなんて、それだけで既にロシアの属国だろ?というツッコミは頻出。
テストに良く出る。

1897年3月2日
文成だと正宗の諱とかぶるから、明成にすることにする。
案出した時点で気付け!と思うのだが、そこは韓国人のやることなので、優しくスルーする。

この後、数回に渡って閔妃国葬の話が出るが、何故か高宗シカトして延期する。
この時の弁理公使加藤増雄の予想では、「高宗が皇帝に成りたがってるから、それになった後じゃね?」

1897年10月13日
12日に国号が「朝鮮」から「韓」に替わった通知。
「帝国」なんてのは付いてない。
単に「韓」。

因みに、「皇帝号」は国内向けには発表され、併せて閔妃も王后から皇后になったものの、諸外国に正式に通知された形跡なし。
自称皇帝&自称帝国ですか?( ´H`)y-~~

1897年11月22日
ようやく閔妃の国葬。
やっと諱が付き「明成」、高宗は已に皇帝号を使っているので「皇后」になる。
だから明成皇后。
これでも結構ダイジェスト。
結論。
「明成を日本人が名付けた」は無茶。
「復位を運動し、結果的に明成が云々」も結構無茶。
「李氏朝鮮だから、皇后って変」は、実際に諱が送られたのは大韓帝国に入ってからだから。(但し、自称臭いw 尤も、日本は正式な通知が無くても皇帝号を認める事を決定している。)
「国葬まで3年って、何してたのよ?」は上記の通り。

こんな感じ。

文中、「戸板喰って死んだ」等の誇張表現がありますが、その辺はこのブログの読者の方は大丈夫かと。(笑)

後半の、春生門事件以降の話は当ブログでずっと連載してきましたので、一番ポイントになるのは、1895年11月18日の記事でしょうね。
ってことで、明日は当該史料をあげて見たいと思います。


今日はここまで。
(スレ立てとblogの両立は厳しいです。笑)