今日も、アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/1 明治30年7月20日から明治30年9月21日(レファレンスコード:B03050002800)』を見ていきます。
まずは、1897年(明治30年)8月15日付『電受第323号』から。

第102号

領議政沈舜澤一昨日より出仕し、金熙圭、李純ヨク2名新たに賛政に任ぜられたり。
又、昨夜内閣会議にて決議し、光武と改元せり。
人事関係の話はあまり重要ではないですが、ここで光武と元号が変わったんですね。
高宗実録によると、議定されたのは「光武慶徳」で、実際に用いるのを「光武」の2字としたようです。

さて、続いては重要な方の人事の話。
1897年(明治30年)8月9日付『機密第51号』から。

閔泳煥免官の件

英国特派大使兼六国特命全権公使閔泳煥は、露公使ウヘバー夫人と同行し、露国汽舩に乗じて「ヲデッサ」に到り、赴英前先づ露都に赴き国書を捧呈し、嗣て英国に入り女皇即位60年の祝典に参列したることは事実に有之候処、此程別紙官報抄録の如く、命令違反の廉を以て突然免官相成候に付、篤と其理由を探聞するに、韓人の云ふ所大畧左の如し。

閔泳煥英国着の電報其筋に達したる以来、祝典当日を経過するも更に何等の消息無之。
果して、御親柬并に国書を捧呈したるや否も詳ならざれば、宮廷に於ては電報にて之を問合せたるに、爾来数日を経たるも返答無之。
国王始め大臣等大に焦慮し、重ねて電報を発し、又一面には度支部顧問「ブラオン」に計り同人の在郷知人にして某官署に奉職するものに電問せしめたるに、是れ亦返答無之。
而て此噂、何時しか世間に伝播し、閔泳煥は英政府に拒絶せられたり。
親柬・国書とも捧呈に至らずして、其儘持ち帰り中にありと諸説紛々申唱へ乙伝ふるに至れり。
宮廷は疑慮益加はり、終に又「ブラオン」をして再度の発電を為さしむるに及んで、其返電に接せり。
其概要は、閔泳煥は英皇即位60年の祝典に参列する為め、特派大使として差遣はされたるにも拘はらず、先づ露都に入り此に国書を捧呈したるを見れば、特派大使は畢竟其名のみにして、其実露国派遣の序たるに過ぎずとの感触を英廷に与へ、随て其対遇も冷淡なりしとの事を報じ越せり。
其他尚ほ附加へたる電文の意味は憚かる所ありとて、殊更「ブラオン」は宮廷に披露せざりしとの事に有之候処、折柄閔泳煥より宮廷に別紙の如き電報の達するあり。
其意味明了ならざるも、兎角6国歴訪の任務を止め帰国すべしとの事に有之。
左すれば、英国に於て必定使命を辱めたるならんと、国王は痛く震襟を悩せらるる際、泳煥は米国に渡り同所より李範晋を露国駐箚公使に任ぜられ、自身は其後任として米国に駐箚を命ぜられたしとの事を電報せり。
此電報の宮廷に達するや国王の逆鱗益甚しく、直に免官の処分を行ひ、次て至急帰国を命ぜられたるなりと云ふ。

本官は、右の事実を英総領事に就て質すに、閔氏が祝典に参列せしは「ブラオン」の知友の電信に由るも明にして、何等事情の存するを聞かずと。
又、之を李善得(リゼンドル)に質すに、同氏は最初より赴英前露都に行くの不可なるを陳弁せしも容られざりしと。
而て閔泳煥の電報に依れば、内に仏・独等の保護を依頼するの親書を発せられたるが如きを以て、右等の事をも聞繕ひたるに、或は之れあらんと思惟すれども、何人も之を知るなしと云ふ。

又た、閔泳煥は曩に当地出発に当り悉く家財を売払ひ、縦令使節の任務を了ゆるも、今後4、5年間は海外にあって生活に無差支丈の準備を為し去れり。
或は同人は、最初より這回の使命の成就すべからざるを予知し、時宜に由りては帰国せずして、多分香港・上海間に彷徨し、閔泳翌同様の生活に倣ふならんとの風説専ら有之候。
但、後任公使には閔泳翌を推すものあり。
目下、内々其諾否問合中なり。
此段及具申候。
敬具
別紙については省略しますので、各自ご確認下さい。

さて、6月2日のエントリーではウェベルと意見が合わずに6カ国公使となったとされており、その対立の根本的原因は6月4日のエントリーにより寵臣派の画策とされ、6月10日のエントリーではこれ幸いと出立を急ぐ姿が見られた閔泳煥。
まずは、ウェベル夫人と共にロシア汽船でオデッサに向かい、そこからモスクワへ行って国書を捧呈、と。
これだと、結構辻褄が合わない気がしますが、後半でこの件に関する話も記載されてますので、取りあえず先に進みます。

で、その次にイギリス入りしてヴィクトリア女王の即位60年の祝典に参列したのは事実。
しかし、命令違反で免官になったようであり、その理由を探ってみると韓国人の言うには、祝典当日を過ぎても閔泳煥から何の報告も無い。
そこで、宮廷が電報で親柬とか国書とかどうなったのよ?と電報で問い合わせたが、その後数日経ってもウンともスンとも言わない。
これに高宗も大臣等も激しく焦って、さらに電報を発すると共に、ブラオンのツテを頼ってみたがこれも返事が無い。
そして、いつも通り何故か世間に漏れ、さらに閔泳煥が英政府に拒絶され、親柬や国書を捧呈できずにそのまま持ち帰り中だという噂が伝播するんですね。

宮廷は益々疑って、またブラオンから再度電報をうたせて、ようやく返電を得た、と。
それによると、ヴィクトリア女王即位60年の祝典出席のための特派大使なのに、先にモスクワ入りして国書を捧呈したのを見れば、特派大使は名前だけで、本当はロシア派遣の方が大事なんだろという感触をイギリスに与えたため、その処遇が冷淡になった、と。
で、他の電文の意味は、憚る所があってブラオンは宮廷に披露しないわけです。
何があったんだろう?(笑)

その時、閔泳煥からも電報があり、6国歴訪の任務を止めて帰国する、と。
これを見て高宗は、イギリスで任務に失敗したのかなぁと悩んでたら、さらに閔泳煥は、李範晋をロシア公使にして自分をその後任としてアメリカ公使にして下さいという電報を寄越す。
つうか、李範晋にしても閔泳煥にしても、アメリカ公使って左遷先や逃亡先かよ。(笑)

当然高宗は、何勝手な事言っちゃってんの?と激怒。
免官の上、すぐ帰ってこい!ということになったそうだ、と。

この件についてリゼンドルに聞いてみると、閔泳煥は最初からイギリスに行く前にロシアに行くのってダメだろと主張したのに、受け入れられなかった。
最初の辻褄が合わない理由ですね。

で、閔泳煥の電報によれば、内々フランスやドイツにも保護を依頼する親書を出したようであり、事情を勘案するにあり得ない話では無いと思うけど、誰も知ってる人がいない、と。

また、閔泳煥は出発前に家財を全て売り払い、使節に任務を終えても4~5年は海外で生活する準備をしており、或いは最初から任務が失敗するのを見越して、場合によっては帰国しないで上海や香港で生活するつもりだったんだろうという噂もある始末。

既に何が本当で、何が嘘なのかさっぱり分からん状態。(笑)
確かに、6月25日のエントリーなんかを見ても、イギリスは対ロシアを念頭に置いた極東戦略を下院で話してますが、それだけで先にロシア入りした使者を軽視するってのは、どうかなぁ・・・。
やっぱり、ブラオンが言うのを憚った、重要な話があるんじゃないかなぁ。
晩餐で、キムチ出したとかさぁ。(笑)

一方で、ウェベルや親露派寵臣と対立していた閔泳煥が、最初にロシア入りするのに反対し、失敗を見越して家財を全部売り払って逃亡準備ってのは、充分有り得る話ではあります。

じゃあ、誰がロシア入りさせたのよといえば、裏に誰かが居るにせよ、やはり前回大院君に「ロシアは僕に親切だし、後ろ盾もしてくれるし、他のどんな強い国が来ても、ロシアが朝鮮を保護してくれるんだから安心でしょ?」と言ってのけた、高宗なんでしょうねぇ・・・。


今日はこれまで。



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