さて、俄館播遷後から大韓帝国と名乗るまでのお話の第3回目。
今日最初は、李完用の話。
アジア歴史資料センター『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第一巻/10 明治30年3月30日から明治30年3月30日(レファレンスコード:B03050002500)』から。
1897年(明治30年)6月26日付『電受第269号』。

第184号

李外部大臣病気療養中、議政府参政趙秉稷、臨時外部大臣署理を命ぜられたり。
前回、「外部大臣代理として賛政趙秉稷の臨時任命を見たるも、是亦兪箕煥の推薦に出でたるもの」と報告された件ですね。
まぁ、果たして本当に病気だったのかは甚だ疑問なわけですが。(笑)

次に、これまで2月12日のエントリー等に見られたとおり、ベネズエラ国境争議、トランスヴァール問題、トルコとのアルメニア人虐待に関する件で、俄館播遷前後の極東政策についてかなり消極的だったイギリスの動向について。
1897年(明治30年)6月26日付『機密送第65号』。

英国下院に於て、議員「チャーレス・ヂルク」が朝鮮に於ける英国政策の軟弱なるを攻撃したるに対し、同国外務次官は之に答へ、英国の利益は専ら通商に在りて、第一.朝鮮の独立維持せられ、露国の為め其の版図若くは政権を併呑せられざること。
第二.朝鮮の国土港湾が他国の版図拡張策之根拠地となり、為めに極東に於ける国力の平均を変動し、遂に或る一国をして東洋に於ける海上の主権を掌握せしむるに至らざらんことを企図するに在り。
若し何れの一国にても如斯行為に出るときは、英国は何時にても朝鮮に於ける其の利益を保護するの決心なる旨を陳述せりとの趣、昨25日在英加藤公使より電報在之候間、右為御心得申進置候。
敬具
この辺の認識の変化ってのは、小村=ウェーバー協定山縣=ロバノフ協定等での日露の接近にも関係してるんだろうなぁ。
勿論、半島における利権はロシアがひそかに容喙してくるわけですし、内地には清国や日本商人が進出してきてますし。
事情はあるにせよ、この時機の朝鮮半島におけるイギリスの影響力が大きく減退している事は確かなわけで。

さて、続いては5月16日のエントリーで高宗への謁見を李載純や金鴻陸に邪魔されて以来、あまり表に出てきていなかった大院君の話。
1897年(明治30年)7月28日発『電受第309号』より。

第97号

大院君、本日午后3時突然輿に乗じ単独にて警務庁に赴かれ、今に還宮せられず、右は表面は同君を逆賊同様の取扱を為すに依り、親から顕はれて縛に就くと云ふにあれども、内実は国政の紊乱を憤ほり、已むを得ずここに出でられたるものならん。
「俺を逆賊扱いしてるんなら、逮捕しろや(゚Д゚)ゴルァ!」と警務庁に現れたって事かな?(笑)
まぁ、内実は国政があまりに乱れているので、やむを得ず出てきたって事らしいですが。
つうか、国政が乱れるのはしょっちゅうで、大院君出動もしょっちゅうで、そのたびに更に大混乱してるわけで、お前、もうちょっとおとなしくしとけと思うのは私だけなんでしょうか。(笑)

続いて、この続報。
1897年(明治30年)7月29日発『電受第310号』より。

第98号

大院君警務庁に入り警務使を詰責し、次て景福宮に赴き国王に対面し政治上の問答に及びたるも、国王の答へ冷淡にして要領を得ず、午后7時■一先自邸に帰られたり。
右の結果、同君の家■僕にして、曾て警務庁に囚禁せられたる者3人は、直ちに放免せられたり。
んー。
やりたい放題だ・・・。(笑)
つうか、大院君の話を高宗が聞き流し状態なのは当然として、俄館播遷かその後の4月27日のエントリーあたりでの還宮運動で捕まったものか、それ以外の者なのかは不明だけど、既につかまってる者を直ぐに放免しちゃうってどうなんだろう?
まぁ、捕まった理由も理由だろうから、どっちが悪いって事では無いんだろうけどね。(笑)

さて、今日最後の史料は、本日冒頭の李完用について再び。
1897年(明治30年)7月30日発『電受第312号』から。

第99号
外部大臣李完用、昨日出仕したるに、同夜直ちに学部大臣に任命せられ、学部大臣閔種黙外部大臣に任ぜらる■、■り■は、再び露国士官傭入に反対し、條約調印を拒まんとするに依るものと察せらる。
本当かどうか不明ながら、病気療養から復帰して出仕した李完用は、その夜学部大臣に任命され、学部大臣閔種黙が外部大臣に任命された、と。
その理由は、ロシア士官傭入に反対して条約調印を拒もうとするためと考えられるってことで、時期的に見ても、病気療養ってのはやはり口実で、ロシア士官傭入に反対しての仮病だった可能性が高いですね。
つうか、条約まだ結ばれてなかったんだ・・・。_| ̄|○


今日はこれまで。



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