あまりに安定根の証言が長いので、最早何かを見失いそうなdreamtaleです。(笑)
それでも実弟の証言というのは、安の人生や性格を追う上では、かなり重要だと思うのですよね。
などと言い訳しつつ、前回の続きから。(笑)


二五.前統監伊藤公爵が、「ハルビン」にて兇徒の為め狙撃せられたるを知れりやとの問なるが、其事実は知れり。
去月30日、信川にて知人の愛読せる26、7日頃の大韓毎日申報に、加害者は「ウンチアン」なりと記しありたり。
然るに、加害者「ウンチアン」は実兄重根のことにて、伊藤公を狙撃したりとは只今承知したるが、実に驚き入る次第なり。

鄭大鎬が、兄の妻を連れ往くとき予に語るに、汝の兄も欧州まで飛廻はり、腰が据らず、一向身持が定まらざるが、今度妻子を送りなば身持も直るべしと。
又た母も、夫婦は兄弟とは違ひ若内に長く分れ居るは不可なれば、向ふから呼べば幸に此際行くが可なりと勧め、嫁も始終心配し居りたる故、一刻も早く往く可く決心し、予も亦斯る兇行を企て居ることとは夢にも想像し能はざるより、往くことを勧めたる訳なり。
実に案外なる話を承り恐入るが、手紙も前に申す如く両3回接手したし、ご覧の如く、其内容も周囲の状況のみを通信し来り。

彼自身の身辺のことは、一向不明なる故、兼て之を心配し居りたる故、鄭大鎬の今回来るを幸ひとして、兄の近状を詳しく聞きたるに、実を言へば不相変素行修まらず、昨冬以来浦塩方面にて一進会員又は日本人に向け、始終戦争をして廻って居る故、彼の儘にして放置するときは、今に生命をも亡ぼすならん。
早く心を改めざるべからず。
如何にしても身持が改まらざる故、妻子を遣るが可なりとのことにて、実は鄭大鎬が勧誘したりと聞きたり。
是予の常に憂慮し居りたる処なり。

乍然、豈夫伊藤公暗殺を予想したるにあらず。
暴徒に関することを案じたるなり。
鄭大鎬も之を憂ひ、予も其気に成り、遂に妻子を遣はしたり。

兄が浦塩に居る中は、同地新聞の事務員、又た学校の教師を為し居りたりとのことなるも、一定の収入ある仕事にはあらずと鄭大鎬は語れり。
伊藤公殺害云々の事は、鄭大鎬も口にしたることなし。

信川は山国故、兄は15歳位のときより山間を馳駆し、銃を取扱ひ、洋銃も射撃に巧みなり。

兄は5尺4寸位にして、頑大なる骨柄なり。
決死の覚悟を為すことなれば、我等に何等か通知あるべしとの事なるも、斯る事は絶てなし。
若し之を予に知らせんが、妻子も始めより送る筈なし。
今に至り、始めて兇行を知る。
安の家系も、茲に滅亡するならんことを思へば、悲みに禁へざるなり。

今日迄の生活費は、金能権、即ち重根の妻の兄と共同して買ひたる水田の収穫を基礎とし、尚恭根の月給毎月20円あり。
予の学費は、恭根の月給より幾分、妻の里より幾分を合せて支へ居れり。
這回の家族の出発旅費は、当地の林君甫より恭根の名にて50円を、重根の妻の弟金能権より50円借入り計80円となるも、他に能権より20円、餞別として贈与せられたるを以て、都合100円を鄭大鎬に渡し、浦塩まで同行を依頼したる次第にて、1人の旅費30円の入費を要するに付、途中の雑用又は発病の用意等を見込み、以上の金額を用意したる訳なり云々。



「ウンチアン」とは、事件当初「応七安」と姓と名が逆転したまま伝わった事に起因している。
「欧州まで飛廻はり」は、ロシアの極東地域の事だろう。
地理的な意味での「欧州」に、安重根が赴いた史料は存在しない。

しかし、「安の家系も、茲に滅亡するならん」って・・・。
李朝時代と違って、連座制ではないだろうに。

旅費に関して、50円と50円で何故計80円なのかは、誤記なのか定根が間違えているのかは不明である。


二六.重根は、党類を30人も集め居るとの噂故、多数向ふに渉りたることを知らず哉との御尋なるが、金東億なる者と安重根と、2人元山地方へ赴きたることは、元山の白神父より洪神父へ通知ありたりとの事を承知せり。

二七.今は隠す所なし。
重根が書面には、啓東学校前李致権内安応七宛にて、手紙を元山田口会社気付朴応相を経由せば、自分の許へ必ず到着すとの手紙来ることあり。
其の手紙は如何にせんや記憶せず。

二八.又「小指」とは、幼年の折普通より小柄なりし故斯く呼びしが、「応七」は彼地にての呼名なり。
又「子任」とは、父が命じたる字なり。
重根は実の名にして、「多默」とは、信川に居る洪神父の命名したるものなり。



んー、昨日の最後に出てきた、字に関する件の駄目押しですなぁ。
「重根」、「応七」、「多默」、「子任」、そして「小指」。

胸腹部の黒子の話は、やっぱり嘘なのだろうか?


さて、以上で次男定根の供述は、やっとこさお終い。
しかし、これで境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』が終わりなわけではない。
続いて、三男恭根の供述である。


七.安恭根の口供
一.予は安重根の末弟にして、安恭根21年。
鎭南浦普通学校の教師なり。
予等3人兄弟にして、長兄重根は久しく外国に在りしが、曾て来信中予は無事なるが、家族は皆達者なりや。
其の手紙には封皮なく、仲兄手紙の内に在りたる故、何処から発送したるかは不明なるを、前に浦塩港より来信ありたることあれば、之れも浦塩からの来信なるべしと想像したり。

二.隆熙3年10月28日の日誌に、長兄の事が心配でならんとの記事あり。
之れは、暴徒となりて一進会員又は日本人を殺して居る故、心配なる意味ならんとのことならんも、右にあらず。
外国にある故、盗賊等に遭ひたるならん。
暫く手紙もない故、心配なりとの意味なり。

三.崔鳳俊は城津に巨万の富を積み、俊昌号と云ふ船舶を有する人と懇意かとの御尋なるも、予は知らず。
唯新聞に広告ありて、元山浦塩間の航海することを知るのみにして、面識あるにあらず。
又韓人にて航海業をするは珍しと思ふ故、其の名を記憶し居りたり云々。



恭根の供述は、以上で終わり。
21歳という若さもあるのだろうが、どうも嘘臭さの漂う供述である。(笑)

それでは続いて母趙氏の供述に入ろう。


 安重根の母とされる写真


八.母趙氏(48歳)口供
一.伊藤公を、去月26日「ハルビン」に於て長男重根が殺害したる事実は、余の知らざる所なり。
実際なれば、実に悪事を遂げたるものなり。

二.1人は学校の教師となり、1人は法律学校に在り。
皆好き児なるも、独り重根のみが悪人なるは如何なる訳か、幼少時代性質を述べよとの御尋なるも、重根とても他の子と異りたることなかりしも、家を出たるのが如斯悪人となりたる原因なり。

三.豆満江地方まで安応七と呼び、暴徒の大将として同人及一進会員を殺害したる者を知り居るやとの御尋なるも、之れは知らざるなり。

四.重根は幼名「応七」と呼びたることあるやとのことなるが、祖父が幼時「小指」(小さい奴と云ふ意味にして、重根は他の兄弟より小なりし為なり)と称へたることありし。



あー、母親から見捨てられてしまった・・・。
まぁ、次男が法律学校で勉強中、三男が学校教師である中で、長男が放蕩息子なのだから仕方ないのかなぁ。

この母親について、連載初回で触れるのを忘れていたが、「三弟恭根は、母趙召史、重根の妻及其長女と共に鎭南浦に現住」という事で、母親として趙召史という名前が見える。
併合前のこの時期、半島の女性の名前が出てくるというのは、ちょっと珍しいのではないだろうか。


(2005.8.19 召史は女性の尊称であったとのnanshu氏の指摘に基づき、調査の結果修正)


今日はこれまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)
調書に見る安重根(七)
調書に見る安重根(八)