良く、伊藤博文殺害犯が2004年の時空警察で日本の併合推進派だったとされたり、ロシア関係者或いは安重根と連携行動をとった別の韓国人であるという、所謂二重狙撃説がありますが、その重要な論拠となっている『室田義文翁譚』以外に、ハルピンで室田義文が伊藤に随行していたという史料自体見たことが無いdreamtaleです。
どなたか知っていたら教えてください。

ということで、前回に引き続き安定根の供述から。


十一.其後生活状態に付来信なく、昨年12月か今年2月か判明せざるも、大韓毎日新聞の林雖正と云ふものの許へ一度来信ありたり。
其手紙は、大韓毎日社にあることは予も知らざりしに、同郷人たる金瀅柱が汝に宛てたる手紙が来て居る故往て貰へと告げたる故、受け取りたり。
大韓毎日社へ来信後、本年4月一度来信ありたり。
内容は欧州より此方へ廻遊したりと云ふに過ぎず、方々を気狂の様に廻り歩いて居る故、俺の事は思はず勉強せよと記しありたるが如し。
約1ケ月前の来信が最後にて、此手紙には、自分は元より外国に住む積りなれば、金1,000円許りを作り家族と共に来れ。
若し金策出来ざれば妻子のみ送れよと申来れり。
之は、予と恭根とに宛てて来れり。
此の手紙は、綏芬河に重根が鄭大鎬を尋ねたるとき認めたるものらしく、鄭が当地に来るときには手紙は與へざりし。



いやー、昨日に続いてもの凄い勝手な兄貴だなぁ・・・。(笑)
普通は、自分が成功して呼び寄せるものだと思うのだが。


 安重根の家族とされる写真


十二.其後、老母其他我々に家計困難ならずやを見舞にて、金品の送付なきかとの問なるも、其様の事なく単に書信による消息なりしのみなり。

十三.出発後に於ける妻子の生活は、来信なき故不明なるも、重根妻及4歳と2歳との男子と共に往きたるが、其外に鄭の母妻男児2人と同行したり。



8月13日のエントリーで既に書いたとおり、安重根の子供が4歳と2歳である事が、実弟の証言からも得られた。


十四.妻子等の生計は如何にするやとの問なるも、何等の話なし。
鄭に聞きたる消息には、浦港又は綏芬河に往くことは別段困難の事なき様なりし。
併し、当時鄭は一定の職業なかりし如し。

十五.予と鄭大鎬とは、義兄弟の契なしたるにあらずやとの問なるも、大鎬の云ふには、重根とは彼の地にて義兄弟となり、兄とか弟とか称し居る故、其関係より自然他人に向ふて余と鄭大鎬は義兄弟なりと云ひたるならん。

十六.鄭大鎬の生立は知らざるも、聞く処にては官立英語学校卒業生にて一定の素養あり。
当地には、税関幇弁として初め一家を挙げて来り居りたるが、京城に於ける模様は判明せず。



これらは、8月12日のエントリーで記載した、安重根の妻子をウラジオストックへ連れて行った鄭大鎬に関する証言である。
安の妻子の他、自らの妻子も連れていながら、妓生を買って遊楽に耽り到着が遅れる程の女好きではあったわけだが、放免後直ぐに税関に復職できるということは、官吏としては優秀な人物だったのであろう。


十七.吾家は父が天主教を崇信し始めたるは10年以前にして、之を引継ぎ、現に冠婚葬祭とも此の宗教の儀式によれり。


1890年代に、両班がキリスト教を信仰する例はなかなか珍しい気もするが、8月5日のエントリーを見る限りそうでもないのかも知れない。
先祖への祭祀(チェサ)はどうしていたのだろうと、要らぬ疑問も湧いたりする。


十八.兄は、仏語を習ひたることあるも未熟なり。
其他外国語として取り止めた勉強したとは思ひません。



フランス語は未熟で、他の外国語を勉強したとは思わない。
これは馬鹿にされているのだろうか・・・。


十九.鄭大鎬が妻子を置く鎭南浦は第二の故郷なる故、人情として先づ当地に来るべし。
平壌に滞留したるは奇怪なりとの御尋なるも、鄭は当地にて借財多き故、債主に窮追せらるべきを慮り来らざりしと語れり。
鄭は、到着後直に家族と共に出立する積りなりしも、旧借財や家族の生計費未払多かりし故、出発を2日間延引したりと語り居れり。

二○.鄭の平壌に於ける知人としては、予の知れる限りにては、当地に居れるとき平壌水商組合支所李承泰と懇意なることを知れり。
予も又李承泰を知り、其他鄭の懇意なる人を知らず。
兄は、前に云ふ如く「三合義」とて石炭商を始めたるときの関係者の外に知合なし。
兄は平壌には外に知人なきも、前に云ふ如く安昌鎬とは平壌にての知合にて、安昌鎬と共に演説したることあり。
好くは判然せざるも、浦塩港に渡航する年の春頃と思ふ。



ここでの安昌鎬は、安昌浩の誤記であると思われる。
安昌浩は、安昌鎬とも呼ばれていたようである。
本人がどちらの名称も使用していたのか、日本側の表記において錯誤したのかは不明である。
(2005.9.25 訂正)


二一.今回鄭と予と出会した動機は、一進会員との訴訟事件の為め平壌の玉弁護士方に滞在中、恭根の手紙に、鄭が近き内に平壌に来る筈に付、会っては如何にと通知し来れり。
予も恭根も、鄭が来るを知りたるは、鄭の家族より電報にて事実を聞きたるものなり。



この、一進会員との訴訟事件とは何を指すのか、残念ながら不明である。


二二.鄭は、17日来壌後、出発迄1週間朝鮮の地に居る訳です。
而して私は、19日初め会見のとき水商組合に尋ねたるに、今宿屋金允浩方に往きしとの事故、同所に行き、共に1泊したるに、京城の和平堂と曰ふ薬舖主人李應善も居れり。
何れも初対面なりしが、共に挨拶の後寝に就きたり。
20日も水商組合の人3、4人来りて、暎月と云ふ妓生方飲酒に赴きたり。
夜明に帰り宿屋に眠りたり。
21日は、正琦(妓生)宅に李承恭・李応善の外に他の韓人居りたるも、身分ある人にあらざる故、姓名を知らず。
22日は午後4時半頃、兄の妻子及鄭大鎬の家族着壌したるも、鄭の母老年に就き、停車場附近の宿屋に投宿せしめたり。
鄭大鎬は相当の旅費を懐中せるより、万一の賊難を慮り、水商組合に鄭致雨(従弟にて家族の送り来れるもの)と共に赴き、寝に就きたるなり。
23日午後4時30分の汽車にて、兄の家族及鄭の家族は新義州迄切符を買ひ、出発したり。
致雨は、新義州着のとき無人なれば、万事困るべしとて同行したり。
故に一行は9人なり。
致雨は28、9歳にして、同行して先方に赴きたるや、又は引返したるかは知らざるなり。

二三.重根の妻の兄の金■権は34年、妻の弟金能権は自分と同宿したり。
重根の妻は32歳にして、兄より1年年長なり。



姐さん女房だったのね。
というか、昨日の話だと娣2人弟2人だった筈なのだが、いつの間に兄さんが・・・?


二四.重根の幼名は応七かとの問ひなるが、能く分らざるも、家出後応七と呼びたる時代名は重根、字は子任と号したり。


以下、『安応七歴史』の冒頭より引用。 【画像】


姓は安、名は重根、字應七。(性質軽急に近く、故に名けて重根と曰ふ。胸腹七介の黒子あり。故に應七と字す。)


北斗の拳の七つの傷ならぬ、七つの黒子を理由に應七とされたと書いてるのですが、弟が言うには子任。
ま、弟はよく分からないとは言ってますがね。(笑)


今日はここまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)
調書に見る安重根(七)