ウリナラチラシは私を寝かせないつもりか!
ということで、まずはニュースから。


「あの蛮行は国権強奪前に行われた」 朝鮮人銃殺写真の関連資料を発見



今回のような真偽不明の週刊誌の記事に関する史料は、ちょっと探せなかった。
ということで軽いツッコミだけにして、記事の引用も省略。
しかし、この古書店「アートバンク」の尹亨源って、良く働くねぇ。(笑)

それではツッコミ第一点。
今更指摘するまでもないけれど、「学界にはこの写真が1919年3.1独立運動関連者の処刑場面だと伝えられていた。」とあるとおり、韓国の学会では、写真の出典も調べずに、妄想で場面を決めつけているということで良いですね?

第二点。
この時期の鉄道としては、京仁線・京釜線・京義線及び馬山三浪津間に代表される軍用鉄道が考えられますが、残念ながらこの当時の全羅南道の潭陽附近には、好奇心で近づけるような鉄路はありません。

第三点。
既に実践投入されている三十八年式小銃の殺傷能力など、1907年にテストする必要がありません。

そもそも1900年代初頭のマスメディアの、しかも週刊誌を鵜呑みにするなど、正気の沙汰とも思えないわけですが。
まぁ、記事を正確に引用しているとは限らないんですけどね。(笑)


さて、ようやく本題。
小休止したのは良いけれど、どこまでやったか忘れかけてますね・・・。(笑)
えーと、安定根の父親と祖父に関する供述まででした。
ということで、小休止前の8月12日のエントリーに引き続き、境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』中、安重根の実弟である安定根の供述から。


二.父は泰勳、母は趙氏、重根・定根・恭根の3人兄弟なり。
外に姉1人ありて、鎭南浦の権承福に嫁し、目下同居せり。

三.重根の妻は金氏、其父は金鴻燮にして已に故人なり。
母あるも姓は不詳。
妻の兄弟は5人にして、娣2人弟2人現に載寧の明惠村に居住す。

四.重根は青年の時より外出を好む気質にて、24、5歳の頃上海に行きたることあり。
其動機は、上海は暮し好き趣なるに付、視察の為なりと称して渡航せり。
芝罘に行きたるは其後にて、普通の遊覧なりしが如し。
如此外出を好みたるが、其当時は相当の金ありし為め諸所に遊びたりと云ふ。



取りあえず弟の視点から見ると、兄はただ遊び回っていただけ、と。(笑)
勿論、上海等での安重根の行動を知っており、それを秘匿し庇っている可能性が無いわけではないが、次の項目を見ても、本当に呆れている可能性の方が高い。


五.教育は四書五経をも読了せず、通鑑を9巻迄修読したるに過ぎず。
始めより心多き方にて、一定したる方針を有したる男にあらず。



んー、ぼろくそに貶されてますなぁ・・・。

通鑑とは『資治通鑑』のことであろうか。
もしそうであるなら、漢紀の一番最初までしか読んでいない、と。

朝鮮においては、四書三経であって四書五経では無いと以前記載した。
抜けているのは『礼記』と『春秋』である。
四書五経を読んでいなくとも、四書三経は読みましたというならそれなりに評価できるだろうが、いずれにしても『安応七歴史』に書かれた、神童と呼ばれ、進士まで進んだ父泰勳には、遠く及ばなかったようである。


六.兄重根は今年31年なるが、5歳の時迄海州の邑内に同居し、信川に転居して25、6歳迄居り、其後鎭南浦に来れり。

七.兄の心は急激にして一定せず物に飽き易き性質にして、従って意思投合の人も少なく、予は兄と別懇の人を知らず。
兄は種々の事を企て、或は止め、妻の兄金能権と合同米商を為したるも幾もなくして止め、次に韓在鎬の弟相鎬(有力なる米穀商)とも共同開業せしも、亦幾もなく罷業せり。
仏国天主教牧師洪(仏人)とは、信川にて若き時より交際せるが、洪は今も尚信川に居れり。
京城に主人と称し、大官の許に出入したることなきやの問なる、多くは天主教徒の許へ無料にて宿泊したるのみ。
京城に至るときは、大官の許に出入する如きは、兄の性質として忌む所なり。



この性格って結構ウリナラスタンダードではないだろうか・・・。

金能権との合同米商も失敗、韓相鎬との共同開業も失敗。
少なくとも、商売のセンスは皆無だったようである。


八.重根と昵近なる鄭大鎬は京城の人にて、元は知らざりしものなるが、同人が鎭南浦海関の幇弁奉職中、雙方の家屋が接近するより心易くし、兄のみならず一族交際せり。
兄は英語を習はざりしも、自分は鄭より英語を習ひたり。
唯普通の友人と云ふに過ぎず、系統的の関係なし。

九.兄は西北学会に入りたるは、海外に出る1年前にて4年前と思ふ。
始めは会費も納めたるが、海外に出でてから会費も納めず、総務評議員等の任員を勤めたる事なし。
西北学会の重なる李甲・柳東説・安昌浩・李鍾浩等とは親近なるべしと御話なるも、予には分らず。
予の考には、安昌浩とは知合なるべきも、他の人とは談話を交へたることなかるべしと思ふ。
予は李甲には一度面会したるも、同人は兄重根を知らざる口吻なりし。
予も近しくはなきも、安昌浩は知れり。



「西北学会」については、史料未調査な状態なのだが、一般に1908年1月に、「西友学会」と「漢北興学会」が統合して成立したものとされているようだが、時期が全く合わんな・・・。
「西友学会」でも1906年10月。
「新民会」なら1907年か。
さて、1905年に、どこに対して会費を払ったのだろうか。


十.兄は前に云ふ如く性急にして、浦港に往く前、「三合義」と云ふ会社様のものを平壌に組織したり。
其人々は韓在鎬、平壌人宋秉雲の兄と3人にて平壌無烟炭売買業を始め、右3名の共同を意味し、斯く名づけたり。
出資者は、韓は1,000円、兄も少々出し、宋も出資することになりしも現金は出さず。
如此開業せしも、無経験の者故失敗に帰したり。
而して其発企人たるは兄なりし故、組合の人々に対し面目なきより平壌を引上げたりと思ふ。
其話は、予が京城に居る内、軍部の経理局長李康夏方に来り、自分に直接失敗の話をなし、其時商業には失敗し面白くなき故浦港に行くと話したり。
予は、家長たる兄が外出しては、老母1人故困ると制止し、雙方意見衝突し争ひたる上別れたるが、兄は其儘釜山・元山を経、浦港に往きたるが如し。
如此にして予と別れたるは一昨年7月にて、其年10月愈浦塩港に到着したる手紙、予の許に到着したり。
浦港に到着の手紙の中には、同地には同胞も増加し、新聞、学校等出来、追々は斯る事業に関係して見よふと記せるも、其生計方法は明記せず。
如此7月より10月迄も音信を欠きたる理由は、元山にて白神父の許に滞在したりと云ふより見れば、其間同人の許に放浪したるなるべし。



さて「三合義」。
8月11日のエントリーで触れた部分ですね。
ご覧の通り、弟の供述によれば、『安応七歴史』の記載のような「日本人の邪魔」など一言も出て来ない。

商売無経験で失敗。
組合の人に面目が立たないので平壌から逃亡。
失敗して面白くないのでウラジオストックへ行く、と。
何か、漫画に出てくるボンボンというか、どら息子というか、穀潰しのような人生にも見えるわけで・・・。

そりゃあ弟も怒るから!(笑)


今日はこれまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)
調書に見る安重根(五)
調書に見る安重根(六)