韓国と北朝鮮、第2次日韓協約の「無効性」確認

クスクス。
昨日の記事は、天啓かな?(笑)


今回は、あまり放っておくと忘れてしまいそうなので、この際書いておこうと思う話。
そのネタは、再び閔妃殺害事件に関係する史料。
もちろん、以前4回にわたって紹介した史料とは、全く別の史料である。

それが、『1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)』。
それでは早速。


陛下は、再三長谷川統監代理召見の思召ある趣、宮中より内報ありたるも、統監代理は病気と称し、姑く其の謁見の機会を遅緩ならしめ居らるる際、幹部将校会議に列する為め、来京中の各方面の幹部主任将校も其の任務を了し、不日帰途に就かんとするに当り、拜謁を希望せる折柄恰も好し、本月九日午後三時半、陛下の思召に由り統監代理を召見せらるる旨、宮内大臣の通知に接し、当日統監代理は、前顯将校井口砲兵中佐以下十一名を帯同し、参内式の如く統監代理は井口中佐以下将校を一々陛下に御紹介し終って、陛下と統監代理との御談話の大要如左。



陛下
顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。
然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。
夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。
最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。

今日、東洋の形勢に鑑みるに、日韓両国は将来益々交誼を敦睦ならしめ、其提携の実を明にし、他をして間隙を窺はしむることなきを要す。
故に、朕と卿との間に於ても努めて誤解を避け、情意を疏通するにあり。
就ては、朕に於て疑はしきことあらば、直接之を卿に確めん。
卿も亦、之と同一の方法に出んことを、切に望むなり。



王妃殂落(死亡)事件は、高宗の臣僚中の不逞の徒が行ったと、自ら述べていますな。

まぁ、岡本柳之助や杉村濬が積極関与し、この事件自体にも多数の日本人が係わったのは、当然否定するものではない。
しかし、朝鮮人自身のこの事件への関与は、従来あまりにも軽視されて来たと思うのである。


統監代理
王妃殿下の事変に関しては、今日にして三回陛下より拜聞せり。
其都度奉答したる如く、外臣頗る此事変の弁解に苦しむ者なり。
乍去、是れ全く我政府若くは国民の意思に非ざることは、茲に断言するを憚らざる所なり。
又陛下の聴明、夙に御認識相成る所にして、従って為之国際上甚しく感情の衝突を見るに至らざりしは、全く陛下御宏量の然らしむる所にして、両国の幸福不遇之なり。
今外臣の上言せんとする所のものは、今回統監は、大に満足を齎らして帰国せるものと御信用相成居れるやに洩れ聞く統監の意、盖し然るやも知れず。
然るに外臣の察する所にては、統監は決して満足帰したるものに非ず。
何となれば、其出発前、外臣が親しく統監に承はる所に拠れば、今春来任以来、予は韓国施政改善の衝に当り、内閣大臣等を指導し、誠意赤心を注ぎて陛下に忠諌する所あり。
且又全力を盡して之が実行に従事したりと雖、更に其効を奏する能はず。
斯る状態にあっては、到底予の力の及ぶ所に非ざれば、陛下の御隨意に放任する外なし。
乍去、今日に於ける日韓の関係は、日本の責任上、無為にして終る能はざるが故に、予は帰朝の上猶ほ熟慮を加へ重ねて、来るの日は何等かの手段を執るやも測られず云々由之観是統監の意中察するに余あり。
陛下に於られて宜く、深思御熟慮あらんことを要す。
外臣任に闕下に駐すること、茲に二年有余。
日常に陛下の殊遇を荷ひ衷心感謝に堪へず、故に敢て聖意の程をも憚からず、此言を奏して以て陛下の御考慮を促す次第なり。



この謁見は、ハーグ密使事件の前年、1906年(明治39年)12月9日に行われた。
就任から半年で「このような状態では、到底私の力が及ぶところではない」と言わせるとは、一体大韓帝国で何があったのだろうか。
いや、見当はついてるけどね。(笑)

この史料はこれ以降も続いており、それがまたなかなか面白いので、明日改めて続きをエントリーしようと思う。
但し、本日記載した部分以外は閔妃殺害事件に関連する記述ではないので、別なタイトルを付けることになるだろう。


さて、閔妃(明成皇后)殺害事件について。
李泰鎮教授の重視する『機密第36号』と『機密第51号』及び『附属地図』を基本とし、そして以前取り上げた『往電第31号』と『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』を見ていくと、単純に一つの説が出来上がる。

附属地図』から、閔妃は「図中に示せる(1)の所より(2)の所に引出され、此処にて殺害に遭われた」。
図中の(1)とは長安堂であり、高宗の居間である。

『機密第36号』には、「然るに他の壮士輩は王妃を逃したると聞き、処々捜索を始め、終に国王の居室に迄踏み込まんとせしが、此所には国王始め世子宮も亦居らせられ、何れも頗る御恐怖の御様子につき、荻原は直に国王の脚座に進み御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い、大手を張って大字形をなし「此処は国王陛下の宸殿なり。立ち入るべからず」と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より「国王及世子丈けは、必ず助命し呉るべし」との依頼ありたるとかにして、一仝異議なく、其場を立退きたりしかば、国王及世子は、身を振はして荻原の両腕に取りすがりつつ、頻りに保護を頼み給いたり。」とある。
つまり、壮士輩は(1)の場所に入っておらず、且つ高宗と純宗は現場に居た。

在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』において禹範善は、「旧年王妃を弑せしは自己なり」と自白

純宗は『往電第31号』で「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」と述べる。

そして高宗は、今回の史料における「勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたる」。


即ち、閔妃は高宗と純宗の目の前で朝鮮人によって高宗の居室から引出され、禹範善の命令或いは禹範善本人により殺害された事件であり、それは純宗も目撃していた、と。

李泰鎮のように、『機密第51号』及び『附属地図』を重視すると、こういう結果になりますがどうしましょう?(笑)


「次のような解釈も可能」「推論も可能」「余地がある」「思っています」。

韓国国史学の権威である李泰鎮の学問基準から言えば、史料記述のみからなる私の説は、李泰鎮の珍妙な盲説以上にマスコミで発表するに足りますね。

勿論私は、先行研究の調査・検討については不充分であり、さらに「恥」を知っていますので、「新発見」などとは口が裂けても言いませんよ。(笑)


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)
閔妃殺害事件史料(三)
閔妃殺害事件史料(四)