ここ何日か、ハーグ密使事件について調べていたのだが、その際に見つけた史料の記述について。

1909年(明治42年)8月26日『憲機第1673号』より。


(会寧報)

韓人諜者は、六月二十四日自宅 (慶興ノ東方六里竜硯) を発し、露領煙秋に至り 「ポセツト」湾に出で、同港より乗船。
同二十八日浦塩に入り、七月七日水青(一名蘇城)に至り、留五日再び浦塩に帰来し、滞留十余日。
七月二十六日該地を発し、 「ポシセツト」 煙秋を経て、同三十日帰着せり。
此間に偵察し得たる情況、左の如し。

 (中略)

三.崔都憲は煙秋にあり、露国官憲の用逹をなしつつありて、其部下首領厳仁燮、全済益、安興七、池用洙、蔡圭成等にして、全済益は孟山洞に、池用洙は煙秋に在り。

厳仁燮は、目下水青に居住せり。
本年始め、同地居住金公心なる者より家屋を建築し貰ひ、陰暦四月頃家族を携へ引移れりと云ふ。
厳は、崔都憲の甥にして、性質良好ならず。
動もすれば詐偽的の行為をなすが如き者にして、一個の無頼漢たるに過ぎず。

安興七は安応七と称しつつあるも、実際安応七にあらず、安興七なりと云ふ。
独身浦塩の安旅店を宿り迴り、人民より金員の救助を仰ぎつつあるも、近来之れに応ずるもの甚だ少しと云ふ。
尚彼は揚言して、人民に於て軍資を充分に救助せば、日本軍を悩まし見せんと云ひ居れりと云ふ。

 (後略)



偽物キタ━━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━━!!!!!!!!!!

ゴメン。
それだけの史料・・・。

とりあえず、安応七こと安重根は、一応偽物が出るほどには名が知れていたようである。
んー。
安重根について、日本側の史料を見ながら、前回の連載で扱った事項を、再構築する必要があるかも知れませんね。
と言うことで、今日はおしまい。