乙未事件(閔妃殺害事件)で、「陛下」が目撃した国母の仇であるとされた禹範善。
彼を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解するとの『往電第31号』の続きから。

1907年(明治40年)9月1日付『来電第17号』


貴電第31号に関し、本官が李斗璜・李範来を他の六名と共に特赦すべしと主張するは、彼等に命令を下したる時の軍部大臣、趙羲淵すら証拠不充分の廉を以て、特赦の恩典に浴するに拘はらず、彼等にして之に浴せざれば事理一貫せず、聖徳洽ねからざるを慮るに由る。
我が帝国の版図内に於て殺人罪を犯し、我が国法の下に処罰せられたる高永根を特赦するに至りては、必ず我が国法の定むる条件を具備せざるべからず。
決して茫漠たる復仇説・忠臣論を以て、交換的に特赦を為し得べきものにあらず。
何となれば、帝国官憲の高永根を処罰したるは、単に我が国法を犯したるに由るものにして、決して乙未事件を眼中に措きたるものに非ざればなり。
故に本官は、本件に関する陛下の御沙汰に、同意を表するを得ず。



高永根が禹範善を殺害した事件は、広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日に起きた。
その前後の模様は、アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』に見る事が出来る。
それによれば、高永根による殺害前から禹範善の殺害計画があった。
以下、上記一件のうち『1 明治36年9月16日から明治36年12月2日(レファレンスコード:B03030222700)』から見てみよう。

この禹範善殺害計画が漏れたのは、9月16日のようである。
首謀者は尹孝定。
事件の発端は、「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」である。【4画像目より】


尹孝定はその後、時の皇太子つまり純宗から令旨(皇太子以下の皇族が発する命令文。皇帝の場合は綸旨)と千円を受け取っている。
但しこの令旨の草案は、尹孝定が作ったものとされる。【手写画像】
しかしながらこの際の計画は、高永根が禹範善に密告したことにより発覚。
そしてこの密告から、禹範善と高永根は付き合うようになったようである。

恐らくは機会を狙っていたのであろう。
11月14日になって魯允明と共に禹範善を殺害する。
尚、高永根は魯允明以外の共犯者、命令者、教唆者は居ないと供述。
一方で、魯允明は皇太子(純宗)から、王妃の復讐を為すべき旨の依嘱を受けた事があったが、今回の事はその依嘱を果たす為ではないとの供述をしている。

結局、広島地方裁判所における一審では、高永根は死刑、魯允明は無期徒刑。
その後1907年2月4日、広島控訴院で高永根に無期徒刑、魯允明に有期徒刑12年の刑が言い渡され、同6日判決が確定した。

思いの外長くなってしまったが、上記のような過程を経て、高永根は日本国内で事件を起こし、日本の裁判によって無期徒刑の確定判決を受け、刑に服していたのである。
日本国内の慶事によって特赦を得るならともかく、韓国での慶事で日本国内の犯罪者に特赦というのは、些か虫が良すぎるであろう。


さて、今回の史料において、禹が自ら王妃を殺したと言ったとされる事については、昨日の「現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」が係わってくる。
本当に目撃したのか、それともこの事件の際にそう思い込んだのか。
純宗の恨み具合等から見ても、「目撃せし」は本当であろうと考えるのが普通であろうが、さて・・・。
論集 朝鮮近現代史には「乙未事件と禹範善」が収載されているが、どのような中身なのか非常に興味が出てきてしまった。


三回くらいで終わるはずだったのに、今日はこれまで。


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)