前回は、高永根による禹範善殺害事件について記した。
再び話を本筋に戻そう。

1907年(明治40年)9月2日付『往電第36号』より。


第17号に関する貴電の趣、委曲敬承。
然るに其の後、当時の事実を取調べたる処に依るに、李斗璜・李範来に命令を下したる時の軍部大臣は、安駉寿にして趙羲淵にあらず。
故に、趙羲淵の特赦を以て之に律すべからず。
併し高永根特赦に関する閣下の御意見は、内大臣を以て言上せしむべきも、若し尚ほ韓皇に於て同意せられざる場合には、李斗璜・李範来をして平理院に自首せしむるか、若くは閣下の御帰任を待ちて解決の事に致すべきか、重ねて御回示を請ふ。



確かに安駉寿は、事件の起きた際の軍部大臣である。
事件の当日の1895年(明治28年)10月8日に、責任をとる形で軍部大臣を辞している。

ここで思い出した事がある。
李泰鎮教授が内田第1次報告書と勝手に名付けた事で知られる(笑)、1895年(明治28年)11月5日付『機密第36号 明治二十八年十月八日王城事変顛末報告ノ件』の一節である。


其関係者は、朝鮮人中にも現軍部大臣趙義淵、訓練隊大隊長禹範善、李斗璜を始め、其他大小の人員数多有之


事件当時軍部大臣ではなかった趙義淵も、関係者として報告されているのである。
つまり、軍部大臣の命令云々はともかく、趙義淵はこの事件に何らかの形で係わっていたのではないだろうか。
では何故趙義淵の特赦は許され、李斗璜・李範来は禹範善のとばっちりを受けたかのように許されなかったのか。
様々憶測は可能であるが、ここでは止めておこう。

純宗

続いて、『往電第36号』と同日付けの『来電第18号』によって、伊藤は自らが帰任してから解決する旨を伝える。

しかしながら、長谷川好道は伊藤の帰任前に内大臣と面会。
1907年(明治40年)9月5日付『往電第38号』より。


昨朝、内大臣を招き貴電第17号の旨を伝へ、此の上は直接陛下に言上する外無之に付き、明日を以て謁見を賜はる様、取計ひありたしと稍強硬に (現状維持に関係なし) 申入れたる処、本日午前兪吉濬以下8名は固より、其の当時の内閣員金宏集外数名も特赦の詔勅、内閣に下れり。


長谷川、強引すぎ。(笑)
この謁見の後韓国政府から詔勅案が出され、それに長谷川が承認を与える形となる。
1907年(明治40年)9月6日付『往電第48号』より。


本日左の詔勅案に対し、承認を与へたり。
詔に曰く、開国五百四年八月の事変は、朕に於て提言するに忍びざる所なり。
然れども実犯は曩に既に戮に就き、余外の諸人は実に犯す所無きを朕は確知せり。
而も尚暗昧の中に在り一、ニ勿問に任ずるに、趙羲淵、兪吉濬、張博、李斗璜、李範来、李軫鎬、趙羲聞、権東鎭等の罪名を、一体蕩滌せり。



趙羲淵、兪吉濬、張博、李軫鎬は露館播遷(俄館播遷)の際に逆賊認定を受け、日本へ亡命。
ちなみに張博は李周會、尹錫禹、朴銑の「裁判宣告書」において、高等裁判所裁判長とされている。
李軫鎬は、李斗璜と同じく元訓練隊大隊長であり、2月11日のエントリーで少しだけ記載した親露派・親米派のクーデター、所謂「春生門事件」において内通し、それを未遂に終わらせた人物である。
趙羲聞はどのような人物か不明。
権東鎮は、後に万歳事件(3.1独立運動)で独立宣言書に名を連ねる事になる人物である。
権東鎮は、「春生門事件」直前に趙羲淵と共に排斥運動を受けた、当時警務使の権濚鎮の誤記の可能性が高い。
李斗璜は閔妃殺害事件の際の訓練隊大隊長、李範来は副隊長。

以上の8名が特赦を受けることとなった。
結局、李斗璜、李範来は禹範善のとばっちりを受けずに済んだのである。
以上で、今回の史料紹介を終わる。
見てきたとおり、閔妃殺害の実犯が禹範善であることを思わせるに、充分な史料があった。

さて、閔妃殺害事件については、角田房子氏の小説「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」によって日本人に虐殺されたというイメージが、日本はおろか韓国にまで広がっている。
小説を信じるのもあまりに愚かな話ではある。

さて、角田房子氏はこの小説の後に「わが祖国―禹博士の運命の種」という、禹範善の息子を題材とした小説を著している。

何かの予防線にしか見えないのは、気のせいですか?


ひとまず(完)


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)
閔妃殺害事件史料(三)