李承晩ラインについては、このブログでも断片的に触れてきた。
今日は、昭和27年(1952年)1月18日の海洋主権宣言(所謂、李承晩ライン)以降に起きた、最も衝撃的な事件について記しておきたいと思う。

それが、「第一大邦丸事件」である。

昭和28年2月23日に行われた、第015回国会 水産・法務・外務委員会連合審査会に証人として呼ばれた、第一大邦丸船長、浜行治氏の証言から抜粋する。

昭和28年2月4日午前7時ころ、福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』は、『第二大邦丸(57トン)』と済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域で操業中であった。

その時、韓国船の『第一昌運号』、『第二昌運号』約55トンが近づいてきた。
彼等は接近して来て、日本語で「魚は獲れますか。」と話をした。
その後、附近で停止して操業開始したかのように見えた。

丁度揚網時間となった第一・第二大邦丸が揚網作業に掛かると、突然、昌運号から自動小銃による発砲を受けたのである。

同国会における外務委員会によれば、乗組員各12名のほか、憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏4、5名が二隻に分乗していたのである。

銃撃開始後約5分で、第一大邦丸は船橋に10数発被弾し、この時操舵室内に坐っていた漁撈長瀬戸重次郎(34)氏は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。

この後、逃走を諦めた第一・第二大邦丸は、済州島の翰林面という所に随行された。

収容されたのが、翰林面の高医院という普通の民間家。
病室は勿論、設備も全くなく、医師は診ただけでこれは駄目だと何の手当もしない。
船員は、警察へ軍病院などの別な病院への搬送を依頼するが、警察は拒絶。
憲兵隊に病院に収容することを依頼するが、そのとき憲兵隊長は盲貫銃創だからとても駄目だと言って断った。
船員側から再三再四頼み、ようやく軍病院へ入院することが許可される。

その時に、「車は直ぐ来ますから」というのでそのまま負傷者のところへ行き、軍病院へ行くまでの間に死なないように、医者にリンゲル注射を一本要求したが、リンゲルは韓国では当時11万円ぐらいであったため、医者は躊躇。

大邦丸船員が、私物を売ることを約束し、やっとリンゲル一本うってもらったが、車は遂に来ないまま、2月4日23時、瀬戸氏はお亡くなりになられた。

この後、船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をでっちあげ、これに強制的に捺印させるも、現実には公海上の事件であった事がわかり、佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将は、李承晩に会見を求める。

さすがに何の予告もなしに、公海上で日本人漁師を殺害した韓国軍の行動に、李承晩も遺憾を表し、『第一大邦丸』の釈放に応じたのだった。

こうして、公海において、軍隊及び警察が民間船を装って近づき銃撃を与えるという、海賊行為よりも悪質な事件は、2月15日、ひとまず幕を下ろした。