ナポレオン・ヒルが最初に面会したときの

アンドリュー・カーネギーの自宅は

一体どこにあったのか?

ペンシルベニア州のピッツバーグ市なのか、

ニューヨーク州ニューヨーク市なのか?


ピッツバーグは、

アンドリュー・カーネギーゆかりの街だ。

1875年に、彼が近郊のノース・ブラドック町に

エドガー・トムソン鉄工所を創設し、

ピッツバーグ地域における鋼の生産が始まった。

この鉄工所が後に、

カーネギー・スチール・カンパニーとなったのだ。


「鉄鋼産業が時代の花形産業となる」という

彼の予見は的中し、建設、鉄道、自動車、兵器・・・

鉄鋼の需要は右肩上がりで上がっていった。


そういう表の表情とは違って

現場で働く人々の労働環境は全く改善されず

劣悪なままだったのだが。


1901年、カーネギー・スチールは

フェデラル・スチール・カンパニー、および

ナショナル・スチール・カンパニーと統合され、

USスチールとなった。


この時、アンドリュー・カーネギーは

持ち株をモルガンに売却して

4億8千万ドルを手に入れ、

経営の第一線から身を引くことになる。


この時、アンドリュー・カーネギーは65歳。

当時としては、いくら創業社長であっても

引退してもおかしくない年齢だった。


全米最大の鉄鋼会社となったUSスチールの本社は

ピッツバーグに置かれ、鉄鋼業界における

ピッツバーグの地位を確立させた。

その後、1910年代には、全米で生産される鉄鋼の

1/3から1/2がピッツバーグで生産されるまでに

成長した。


では、ナポレオン・ヒルが会ったとされる

1908年の秋(ナポレオン・ヒルは、

カーネギーと会った重要な日が何月何日かを

一切書き残していない!)、カーネギーは73歳

(実は、残されていたナポレオン・ヒルの

自伝の原稿では74歳となっていた!)。


その頃の彼は、カーネギー財団での

慈善活動の承認や決済、及び世界中からやってくる

訪問客との面会で、予定は一杯だった。

彼は、人と会うのが好きで、

予定が許す限り多くの人との面会を楽しんだ。


ここで、1908年当時のカーネギーの自宅が

どこにあったかが大きな問題となる。

なぜなら、大手企業の経営者や投資家、

金融機関、大手マスコミなら

1908年当時、彼がどこに住んでいて、

どこで来客と会い接待していたのかは

分かっていても、

当時24歳で、まだ駆け出しの記者の

ナポレオン・ヒルには、簡単には

知る由もなかった。


あなたは、孫正義や柳井正の自宅を

知っているだろうか?

彼らに会うだけなら社長秘書に連絡して

会う目的と社名などを告げ、アポイントを

取り付けるというハードルを乗り越えなければ

ならないだろう。


ナポレオン・ヒルが

アンドリュー・カーネギーとの面会予約を

取り付けたのは、彼自身ではなく

当時彼が所属していた(契約社員)、

Bob Taylor's Magazineの

テイラー社長だった。


『私たちは成功者に何を学ぶべきか』では、

19ページに以下のように記載されている。



=====================

私たちは成功者に何を学ぶべきか/ナポレオン・ヒル
¥1,260
Amazon.co.jp



1908年の秋、

25歳(これも彼の自伝原稿によれば

24歳)のヒル博士に転機が訪れる。

『ボブ・テイラーズ・マガジン』という雑誌に、

成功者たちについての記事を書くことが

決まったのだ。

その最初の仕事が、

当時ピッツバーグに住んでいた

アンドリュー・カーネギーとの

インタビューだった。


====================


ところが、

残されていたナポレオン・ヒルの自伝の原稿から

書かれた『「成功哲学」を体系化した男

ナポレオン・ヒル』の60ページから紹介する。


「成功哲学」を体系化した男 ナポレオン・ヒル/マイケル・リット・ジュニア



¥1,470
Amazon.co.jp


====================


1908年の秋、ナポレオン・ヒルは

人生の再建に取り組み始めた。

その頃、父ジェームズは

歯科専門学校を優秀な成績で卒業し、

弟のヴィヴィアンもロースクールを卒業していた。


二人は前途有望な新たなキャリアを

始めようとしていた。

一方、ナポレオンは、

数週間後に25歳の誕生日を迎えるこのとき、

帰りの旅費をかろうじて払えるかどうかの

有り金しか持たずにニューヨークに来ていた。


しかし、ナポレオン・ヒルがこのとき感じていたのは

屈辱感ではなく、冒険をしているという

高揚感であった。

彼は活気に満ちたマンハッタンの、

北のはずれに位置する広大な敷地を

目指していた。


そこで、最初の大きなインタビューの

仕事が彼を待っていたのである。


邸宅の入り口までやって来た

ナポレオン・ヒルは上着を直し、

蝶ネクタイを正し、気を沈めるために

深呼吸をし、ドアをノックした。


執事が巨大なドアを開け、

彼をアンドリュー・カーネギーの

堂々たる自宅へと招き入れた。

ナポレオン・ヒルは、驚きと興奮と、

ここで起こることが自分が進む方向を

変えるであろうという予感に圧倒された。


====================


同じことを、描いているはずなのに、

一方の本では、

1908年当時のアンドリュー・カーネギーの自宅を

ピッツバーグとし、別の本ではニューヨーク郊外

だとしている。


ナポレオン・ヒルは、

『思考は現実化する』などの本を書いた当時、

明らかにアンドリュー・カーネギーの自宅が

一体どこにあったのか知らなかったのだ。

会社がピッツバーグにあったことから

当然引退後もピッツバーグに住んでいたと

思い込んでいたのだ。


ところが、後年、ナポレオン・ヒルは

アンドリュー・カーネギーが

晩年はニューヨーク市の郊外の邸宅に

住んでいたことを知り、その辻褄合わせに

新たな自伝の下書きを書くも

嘘の上塗りとなるため出版を取りやめたものと

思われる。


考えてみれば、

本当にアンドリュー・カーネギーの自宅に

行ったのならば、そこがどこなのか

生涯忘れることも間違うこともないはずだ。


(つづく)