この記事は、中部大学教授、武田邦彦氏のブログから

記事の転載許可を得て、以前ネコペンギンのブログ

『幸せな成功のための魔法の杖』で連載しておりましたが、

2011年2月18日朝、アメブロによってそのブログが

突然削除されてしまい、ご紹介ができなくなってしまいました。


そこで、ウルフペンギンのこのブログで改めて

ご紹介していくことになりました。

なお、本文中の誤字脱字は訂正してありますが、

基本的に内容はそのままにしております。


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第一回で「台湾は国?」という質問が非常に難しいこと、

歴史的に見て最初に国になったときという意味では

「日本国」だということを書きました。


これは国際的慣行で先占権といい、

国でないところに始めて国を作った国が

そこを自分の国とできるということです。


このように、尖閣諸島が

どの「国」に属するのかということ一つをとっても、

なかなか難しいことが分かります。


第2回目は

「中国という国はあるのか?」ということを簡単に解説します。

詳しくはシアターテレビジョンの

「現代のコペルニクス」をご覧ください。


私たちが今、中国と呼んでいる地域は、

1)昔からの支那(チャイナ)、

2)台湾、

3)満州、

4)蒙古、

5)ウィグル、

6)チベット、

で、それぞれ別の国です。


満州は女真族という民族の国で、

支那の国とはまったく別の国です。


多くの人が万里の長城というのを知っていて、

北京に行ったことがあれば北京からすぐのところに

万里の長城があることを経験しているでしょう。


「万里の長城」とはまさに城で、

「異民族の侵入を防ぐ、中国(支那)の北の防衛線」です。

ということは万里の長城より北は

支那ではないことを示しています。


満州は万里の長城の東北ですから、

当然、中国ではなく「満州」という国(もしくは地域)です。

満州が国のような体裁をとったのはかなり前ですが、

強くなった時からでも「遼」、「金」などの北方民族の国であり、

さらに蒙古の「元」を経て女真族が力をつけてきます。

でも国境線が画定していた訳ではありません。


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今の中国だけが頭にある人は、

ここが錯覚しやすいところですが、

支那の地域を支配した「明」という国を攻めて作った「清」は

「占領王国」です。


つまり普通は「国」があるので、

「ドイツが北の方からフランスに攻め入って

フランスを占領して合併して、

首都をベルリンからパリに移した」と言うことと同じです。


ドイツ人がフランスを占領したのですから、

首都をパリに移しても政府の中枢部はドイツ人、

権限はドイツ人が握っていたという状態です

(現実の歴史ではナチスの時に短い間、

このような事が起こりました。


もう一度、くり返しますと

「清」という「支那の王朝」は

「満州」の女真族が支那を占領して

北京に首都を移したということですから、

「清」は支那(中国)の国ではなく、満州の国なのです。


ここが支那人の「国」の考え方が世界と違うところで、

普通なら「我が国土を取り戻せ!」という事になるのですが、

もともと支那には「我が国」がないので、

外国(満州)に占領されると、

逆に満州も「我が国土」になるという

逆転現象が生まれるのです。


日本がアメリカに占領されると、

日本人が「アメリカは日本だ」というようなものですが、

「中華思想」というのは「世界中が中国だ」というのに

ほぼ同じですから、

特に論理が破綻している訳ではありません。


もっとも中国にも

「支那の国が支那で、他国に占領された国は支那ではない」

として日本に移住した朱舜水のような人物も居ます。

彼は「日本こそが中華だ」と言っていますが、

つまり日本人のような「国」という概念はないのです。


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国がない人から見て、尖閣諸島や台湾、

さらには朝鮮、南沙諸島などを見ると

どのように見えるでしょうか? 


国境というのがもともとないのですから、

世界中、どこでも自分の力の及ぶところが国であり、

さらに外国が自分のところを占領したら、

その外国も自分の国になるということです。


従って、「どこでも自分の国」という考えの今の中国が、

「尖閣諸島はこれまで中国であったことはないが、

欲しいから自分のものだ」というのも

彼らなりの理屈が通っています。


このように、普通の国と全く違う論理を持った地域、支那。

その地域が日本の隣にあるということを

日本人はよくよく考えなければならないでしょう。


「sekaiwatyugokutdyno.232-(7:53).mp3」をダウンロード


(平成24年9月5日)
武田邦彦


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誰かと何かについて議論する場合に、

それぞれの主義主張が違うのは当たり前としても、

言葉の定義まで違っていれば、

そもそも議論にならない。


例えば、関西電力が説明する「供給可能電力」

という言葉と、我々が考える「供給可能電力」という言葉に

違いがあれば、大飯原発の再稼動の是非をめぐる

政府や関電との議論は成り立たないことになる。


休止中の火力発電所を全て再稼動し、

近隣の電力会社から最大限融通してもらい、

なおかつ我々住民側が最大限の節電を行えば

電力供給は足りるのかどうかが問題なら、

「供給可能電力」は、当然休止中の全ての

火力発電所を再稼動させた時の数値でなければならない。


が、今年の夏の場合、

大飯原発を再稼動したため、電力ピーク時においても

関電の火力発電所が全て稼動していたわけではなく、

4箇所は休止のままだった。


さらに、9月に入り、誰が考えても

電力ピークは下がっており、大飯原発は再度止めても

問題がないはずだが、政府も関電も一切

そのことに触れようとはしない。

一旦、再稼動したら後は知らないよという感じだ。


同じように、中国と日本で

「わが国」とか「国境」とか「領有権」について議論する場合、

それぞれの国で、これらの言葉の定義が違えば

議論は成り立たない。


「著作権」や「安全性」、「耐久性」、「健康被害」、

「品質保証」、「信頼」、「供給」、「世論」、

といった言葉の定義が明らかに違う相手と交渉する場合、

そのことを最初に明らかにしておく必要がある。


by ウルフペンギン