ナポレオン・ヒルの父親、

James Monroe Hill(ジェームズ・モンロー・ヒル)は、

全くの無学というわけではなく、読み書きも多少はできた。

そして、彼が酒の密造に手を染めることもなかったようだ。


彼は、

James Madison Hill(ジェームズ・マディソン・ヒル)の

6人の子どもたちの一人だった。


ジェームズ・マディソン・ヒル(ナポレオン・ヒルの祖父)は

イングランド生まれの印刷業者で

他の二人の兄弟と共に1840年代にアメリカにやって来て

ケンタッキー州とヴァージニア州の州境となっている

ブラック・マウンテン辺りに定住するようになった。


ジェームズ・モンロー・ヒルは、

ナポレオン・ヒルなら決してやりそうにない方法で、

山での生活を満喫するようになった。

隣人たち同様、ジェームズ・ヒルは、

彼らの孤立したコミュニティで

農業をしながら他の分野でのサービス業にも従事しようとした。


子どもの頃、彼は自分の父親から仕事(印刷業)を

直接学んだだけでなく、狩猟や釣りと自然についても

学んだ。


彼は、教室が一つしかないログハウスの校舎で、

簡潔で雑な公的な学校教育を受けたが、

その正規の教育は彼が14歳の時に修了し、

その後は、自分の父親の印刷ショップで働くようになった。


ジェームズが17才になった頃、

彼はSara Sylvania Blair(サラ・シルヴァニア・ブレア)と結婚し、

その後、Guests River(ゲスト川:もてなす川という意味)

から少し離れたLipps(リップス)という村で

ログキャビン(丸太小屋)を建ててそこに移り住んだ。


その年、古いタイプライターから外したフォントと

古い木製の印刷機、銃の前身などを使って

彼自身の印刷機を作った。

そして、ジェームズは地元の材木を削って版下を作り、

Zephyr(ゼフィール:西風という意味)という

ワイズ郡最初の新聞を発行するために

その木版印刷機を活用した。


その新聞には、個人広告、ローカルニュース、天気などの

簡単な記事と短い社説があった。

その若き起業家は、100人ほどの購読者に対して

記事を書き、コピーを印刷することに加えて、

時には思いつきで何かを出版もすることもあった。


Zephyrを発行することは、

ジェームズ・ヒルにとって一種の慈善事業だった。

なぜなら、ほとんど収入も得られない割には、

多くの時間を取られたからだ。


かくして、3年後、初の息子が産まれたとき、

若い家族に自分の全てのエネルギーを注ぎ込もうと、

彼は新聞の発行を断念した。

彼にとって、自分の才能を活かせる

より市場性のある(儲かる)他の趣味を

見つけることが難しかったのだ。


ナポレオンが生まれたときには、

ジェームズは鍛冶屋をしながら農業を営んでいた。

後に、彼はそこで郵便局を設立するのを助けて、

地元Lipps(リップス)の名前を有名にしたことにより、

長年郵便局長としても勤めるようになった。


さらに彼は貿易商で商売人でもあり、

小さな雑貨店も経営するようになった。

彼は、これらの全てをうまく切り盛りした。


山での生活での慣例通り、彼にとって

あらゆることが独学だった。

そして、正式なトレーニングよりも

創造力と賢さで時代を乗り越えていった。


彼のインスピレーションは、

彼自身の問題や隣人たちの問題の解決策を見つけるのに

非常に役立った。



(つづく)


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【参考文献】

A Lifetime of Riches: Revised Edition/Michael J. Ritt
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ナポレオン・ヒルという人物は、

名前がよく知られている割にはその実像ははっきりしない。


アンドリュー・カーネギーのように

近代以降、存命中に成功した人は

本人の意向か周囲の意向かに関係なく、

自伝を書きたがる傾向にあるが、

中には、エジソンや最近のスティーブ・ジョブズのように

いろいろマスコミ向けに話すことが多かった割に

自伝を書かなかった成功者もいる。


事業で成功するということと、

正直に自分の人生を振り返って言葉で表現する

ということは違うということもその理由だと思われる。


但し、スティーブ・ジョブズの場合は、

優秀な伝記作家である、

Walter Isaacson(ウォルター・アイザックソン)の

インタビューに答えるという方法で伝記を残してくれた。


さて、同じように存命中(中年になってからだが)に

成功した、ナポレオン・ヒルだが、

彼の「自伝」は今もって出版されていない。


晩年は、全米各地でのセミナーや講演会で

忙しかったとはいえ、自伝くらい書く時間はあったろうにと

素人考えでは思ってしまう。


実際、調べてみると、

彼がタイプライターで作成し、手書きで修正を加えた

「自伝」の原稿が残されていることが分かった。


ところが、その「自伝」の出版を

遺族の一人であり、ナポレオン・ヒルの三番目の妻だった、

Annie Lou Hill(アニー・ルー・ヒル)が許可しなかったことで、

未だに我々は読むことが出来ない。

(彼女はナポレオン・ヒルの書籍の印税管理相続者。

 ちなみに、ナポレオン・ヒルは、彼女と離婚した後に

81歳で彼女の妹、レイラ・ベン・ハッチャーと

結婚している!生涯で4度目の結婚だ!)


しかし、晩年のナポレオン・ヒルの秘書だった

Michael J. Ritt Jr.(マイケル・J・リット・ジュニア)は

ナポレオン・ヒルの死後、遺族の許可を得て

その原稿を読むことができた。


そこで、その「自伝」そのままでは出版を

アニー・ルー・ヒルが許可してくれないため、

マイケル・J・リット・ジュニアは、

その自伝を読んだ記憶や直接接していた時の

ナポレオン・ヒルとの会話などの記憶を基に

彼の伝記を書くことにした。


但し、調査も含めて単独ではうまくまとまらず

ジャーナリストでフリーの作家でもある

Kirk Landers(カーク・ランダーズ)の協力を得て完成させたのが

1995年初版の”A LIFETIME OF RICHES”だ。


これまた残念なことに、

あれほどナポレオン・ヒル関連書籍をいくつも出版し、

なおかつ「ナポレオン・ヒル成功プログラム」と題した

超高額通信教育講座でも大儲けした出版社である

「きこ書房」は、17年経っても日本語訳を

全く出版しようとはしない。


アニー・ルー・ヒルが自伝の出版を許可しなかったのも、

この”A LIFETIME OF RICHES”の日本語訳を

きこ書房が出版しないのも同じ理由からだと思われる。


それは、「イメージが壊れる」からだ。


あの「経営の神様」と言われた松下幸之助も

現役時代に多くの経営判断ミスを犯しており、さらに

成功してから東京などに何人も愛人を作り、

子供まで生ませて認知していたことが

最近になって分かってきた。


その上、「松下政経塾」の初代塾長を

彼が尊敬する池田大作にお願いしていたことまで

週刊誌などで明らかにされた。


成功者のその「成功」によって(寄生して)、

本人が亡くなってからも多くの人が

お金儲けをしているため、やはり成功者の実像は

一般大衆には知られて欲しくないというのが

本音に違いない。


そこで、このナポレオン・ヒルについての

今のところ唯一のこの伝記を少しずつ紹介していく予定だ。