ナポレオン・ヒルが生まれ育ったバージニア州ワイズ郡は、

ケンタッキー州との州境の

Blue Ridge mountains(ブルー・リッジ山脈)にある

忘れられたような地域だった。


全米各地の都市や町で

当時沸き起こっていた熱狂的な変化から、

ほとんど完全にと言っていいくらい隔離されていた。


外部からそこへ辿り着くためには、

密林や深い谷、渓谷、それに深い窪みなどを遠回りしながら

100マイル以上もを通り抜けて行かなければならなかった。


しかも、雨季の合間だけどうにか使える

水が流れていた跡の溝のようなわだちだらけの

まるでダート・トラック(自動車ラリーのコース)のような

道を通っていくしかなかった。


そこでの生活は、

東部地方の一般的な都市での生活と比べると

原始的と言っていいくらい質素だった。

1部屋ないし2部屋のログ・キャビン(丸太小屋)は、

1880年代当時のワイズ郡の住民にとっての

ごく一般的な住まいだった。


そして、中には

単に倒れた巨木の幹をくり抜いただけといった感じの

粗末な避難所のようなところで寝起きしている

人たちもいた。

平均寿命は短く、乳児死亡率も高かった。


そして、

何万人ものバージニア州の住民たちは

十二指腸回虫からマラリア、ペラグラ(不適切な食事によって

起こる病気)に至るまで、

様々な慢性の健康問題に年中苦しめられていた。

(訳注:ペラグラとは

ナイアシン欠乏症(ニコチン酸欠乏症)のこと。

ナイアシンの欠乏により手足や顔、首などに

皮膚炎が起こる病気)


2,3の主な都市を除いて、

全米各地での公立学校は実にお粗末だった。

小学校は年間わずか約4ヵ月間しか開校しておらず、

その上、出席の義務もなかった。


ハイスクール(全米でまだ100校足らず)は珍しく、

そのほとんどは2、3年程度のカリキュラムしかなかった。

実際のところ、ナポレオン・ヒルの誕生20年後になっても、

バージニア州全土で4年制のハイスクールが

ようやく10校になった程度だった。


ワイズ郡では、物々交換は現金より一般的で、

裕福と言える家族もほとんどいなかった。

住民の多くは、冬は木炭ストーブで自分の家を暖めたが、

そのための木炭も、自分たちで作らなければならなっかた。


商業採炭が始まるのはそれから10年近く後のことで、

1890年代になって、ヴァージニア洲南東部で

ようやく始まった。


多くの人たちは、他地域の人たちとの物々交換や

農業、ハンティングで新鮮な肉を得ることによって

どうにか暮らせていた。 


やせて岩だらけで荒れた土地は、

農地開拓をさらに困難なものにしていた。


しかし、1880年代はアメリカの農家にとって

最高の時代ではなかった。

生活資金を得ようと必死に都会で農作物を売ろうとしても

下落した作物価格は、家族の安定した生活をさらに翻弄させた。


(つづく)


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ナポレオン・ヒルという人物は、

名前がよく知られている割にはその実像ははっきりしない。


アンドリュー・カーネギーのように

近代以降、存命中に成功した人は

本人の意向か周囲の意向かに関係なく、

自伝を書きたがる傾向にあるが、

中には、エジソンや最近のスティーブ・ジョブズのように

いろいろマスコミ向けに話すことが多かった割に

自伝を書かなかった成功者もいる。


事業で成功するということと、

正直に自分の人生を振り返って言葉で表現する

ということは違うということもその理由だと思われる。


但し、スティーブ・ジョブズの場合は、

優秀な伝記作家である、

Walter Isaacson(ウォルター・アイザックソン)の

インタビューに答えるという方法で伝記を残してくれた。


さて、同じように存命中(中年になってからだが)に

成功した、ナポレオン・ヒルだが、

彼の「自伝」は今もって出版されていない。


晩年は、全米各地でのセミナーや講演会で

忙しかったとはいえ、自伝くらい書く時間はあったろうにと

素人考えでは思ってしまう。


実際、調べてみると、

彼がタイプライターで作成し、手書きで修正を加えた

「自伝」の原稿が残されていることが分かった。


ところが、その「自伝」の出版を

遺族の一人であり、ナポレオン・ヒルの三番目の妻だった、

Annie Lou Hill(アニー・ルー・ヒル)が許可しなかったことで、

未だに我々は読むことが出来ない。

(彼女がナポレオン・ヒルの書籍の印税管理相続者。

 ちなみに、ナポレオン・ヒルは、彼女と離婚した後に

81歳で彼女の妹、レイラ・ベン・ハッチャーと

結婚している!生涯デ4度目の結婚だ!)


しかし、晩年のナポレオン・ヒルの秘書だった

Michael J. Ritt Jr.(マイケル・J・リット・ジュニア)は

ナポレオン・ヒルの死後、遺族の許可を得て

その原稿を読むことができた。


そこで、その「自伝」そのままでは出版を

アニー・ルー・ヒルが許可してくれないため、

マイケル・J・リット・ジュニアは、

その自伝を読んだ記憶や直接接していた時の

ナポレオン・ヒルとの会話などの記憶を基に

彼の伝記を書くことにした。


但し、調査も含めて単独ではうまくまとまらず

ジャーナリストでフリーの作家でもある

Kirk Landers(カーク・ランダーズ)の協力を得て完成させたのが

1995年初版の”A LIFETIME OF RICHES”だ。


これまた残念なことに、

あれほどナポレオン・ヒル関連書籍をいくつも出版し、

なおかつ「ナポレオン・ヒル成功プログラム」と題した

超高額通信教育講座でも大儲けした出版社である

「きこ書房」は、17年経っても日本語訳を

全く出版しようとはしない。


アニー・ルー・ヒルが自伝の出版を許可しなかったのも、

この”A LIFETIME OF RICHES”の日本語訳を

きこ書房が出版しないのも同じ理由からだと思われる。


それは、「イメージが壊れる」からだ。


あの「経営の神様」と言われた松下幸之助も

現役時代に多くの経営判断ミスを犯しており、さらに

成功してから東京などに何人も愛人を作り、

子供まで生ませて認知していたことが

最近になって分かってきた。


その上、「松下政経塾」の初代塾長を

彼が尊敬する池田大作にお願いしていたことまで

週刊誌などで明らかにされた。


成功者のその「成功」によって(寄生して)、

本人が亡くなってからも多くの人が

お金儲けをしているため、やはり成功者の実像は

一般大衆には知られて欲しくないというのが

本音に違いない。


そこで、このナポレオン・ヒルについての

今のところ唯一のこの伝記を少しずつ紹介していく予定だ。