この記事は、中部大学教授、武田邦彦氏のブログから

記事の転載許可を得て、以前ネコペンギンのブログ

『幸せな成功のための魔法の杖』で連載しておりましたが、

2011年2月18日朝、アメブロによってそのブログが

突然削除されてしまい、ご紹介ができなくなってしまいました。


そこで、ウルフペンギンのこのブログで改めて

ご紹介していくことになりました。

なお、本文中の誤字脱字は訂正してありますが、

基本的に内容はそのままにしております。


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子供の被曝限度を定める理由は、

「できるだけ多く被曝させる」のではなく、

「子供を被曝から守る」ためである。


食材の被曝限度を定める理由は、

「できるだけ多く被曝させる」のではなく、

「子供を被曝から守る」ためである。


でも、どうもそうなっていない。

放射線の被曝を受ける子供の立場になった計算を

見たことがない。


基準を見ると水道以外は

「自分の職務範囲」だけで

被曝限度になるように計算をしている。


文部大臣は次のように考えている。


「子供の被曝限度を、

法律で定めた(大人の)1年1ミリの20倍にして、

1年間に20ミリまでとする。


子供は学校から帰ると、外には出ないから、

学校以外は家の中に閉じこもっているとして、

0.4を乗じて良い。


また子供は食事をしないし、水も飲まないし、

砂埃もかぶらないから、すべてゼロにして良い。


農水省が「地産地消」とか言って

福島の子供達に福島の野菜を食べさせるだろうが、

それは文科省の管轄ではない。


文科省はあくまで学校での被曝だけで20ミリで良いのだ。

結果として子供達がどのぐらい被曝しても、

それは縦割り行政の原則があるので、

計算しなくてもよい。


教育とは上から強制して教えるのだから、

子供達の立場など立たなくて良い。

文句を言ってくる保護者はすべて

「モンスター」と言って追い返せ」


と言う。


・・・・・・・・・


農水大臣は、


「子供は学校では被曝しない。

だから、食材と水で1年20ミリシーベルトで

基準を作ればよい。


スーパーや生協は

どうせ子供の被曝量は計算しないだろうから、

基準を300ベクレルと決めておけば、

それ以下は「安全だ」と言って販売するだろう。


文科省は学校の運動場での被曝を決めるだろうが、

そんなのは農水省とは関係がない。


農水省の仕事は、

農作物を買う消費者や子供の被曝など問題では無く、

農家を守ることだ。」


かくして、国家を信じた親のもとで育つ子供は

1年に50ミリシーベルトまで「安全」とされて被曝する。

放射線防護学では、大人と子供の感度は

3倍とされているので、大人として150ミリの被曝と同じになる。


・・・・・・・・・


日本の大人はどうしたのだろうか?


地方自治体はもちろん、どこでもかしこでも、


「被曝しても安全だ、

放射性物質の含まれている野菜も安全だ。

自分だけ助かろうとするのは汚い。」


という大合唱である。


今まで発がん性物質などに神経を配っていた人たちも、

子供達に年間150ミリシーベルト相当の被曝をさせても

「安全」と言う。


日本の大人はどうしたのだろうか?


被曝量の計算ができないことはないはずだ。

文科省の役人は国家試験を通っているのだから、

算数はできるはずだ。


また、いくら縦割り行政でも、

同時に国民の一人だから、

文科省の役人は農水省の基準を知っているはずだ。


だれも、子供を守ろうとしない? なぜだろうか?


縦割り社会が続き、なんとか言い訳できれば

責任をとらされないという習慣が身につき、

「誰のための限度」なのかが判らなくなっているのだろうか?


私は教育基本法にあると思う。


今の大人は「自分だけ良ければ良い」という教育を

徹底的に受けてきている。

政府が1年20ミリまでOKといえばしめたもので、

他人の子供が被曝しようが関係ないと言う

教育を私たちはしてきた。


だから、政府の高官が「健康に影響はない」と連呼して、

家族を遠くに待避させていたのは「教育の成果」なのだ。


・・・・・・・・・


私はこのような歪んだ日本社会を元に戻したいと思う。

人間としての心を持ち、他人の健康に気を配り、

高潔な魂を持つ人たちの住む国で暮らしたいと願う。


そのために、1年20ミリなどと文部大臣が言っても、

それを「無視して、子供達のために1年1ミリ」を

守る活動を続けたい。


そしてそれを通じて、

「他人を痛めても、自分だけ得をすればよい」という社会から、

「他人の痛みが分かる、誠実みのある社会」に近づけたい。


(平成23年5月25日 午後5時 執筆)

武田邦彦


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戦後のこの国での教育が間違っていたのではないか?


「欧米列国に追いつき追い越せ!」


「アメリカのように物資豊かな国になろう!」


その結果、競争重視、偏差値重視、全教科伸展主義、

という偏った教育が進められ、

全教科好成績という、個性もなく面白みもない人間が

多数東大に入ることなり、官僚へと送り込まれることに

なってしまった。


個性が軽んじられ、数学も英語も国語も歴史もみな

同じように好成績が良いとされてきた。


そのため、数学の成績は良いが、

英語や国語の成績は全くダメといった生徒や、

歴史にすごく詳しいのに数学がダメという子どもが

社会の中で影響力を発揮できないようにしてしまった。


個性を認める教育を続けておれば、

障害者はもちろんのこと、容姿や親の仕事、

貧富の差でいじめられることはなかったはずだ。


競争だけの社会では、あらゆる手段(いじめやコネ、

裏金工作、カンニング、脅しなど)を講じてでも

相手に勝てば、「結果良し」という感覚を

助長させてしまう。


競争に打ち勝つための努力や精神を

教えると同時に、各自が持っている「強み」を

お互いが認め合うということも同時に教えておれば、

社会人になっても周囲がそういう大人たちで一杯なとなり、

短絡的なエゴ丸出しの犯罪は

もっ少なくなっていただろうし、

自殺ももっと減っていたに違いない。


日本を変えるには、

幼児教育から高校教育まで全てを変えて、

そんな教育を子どもの頃から受け続けて

大人になり、社会人になっていく日本人を

増やすしかない。


そして、そういう日本人が

選挙で投票に行き一票を投じ、

自ら立候補するようになれば、

ようやくこの国は変わるだろう。


by ウルフペンギン