昨年の今頃、宮城県の牡蠣(カキ)の放射能のことが気になり、ネットで情報追跡した。
これだ
2011年11月20日 宮城の牡蠣:放射能検査データ(11月20日時点)
http://ameblo.jp/dreamjoe/entry-11084227878.html
 
2011年3月11日の大震災のあの日あの瞬間、俺は、のんきにも、自宅の横浜からサイクリング自転車で江ノ島に行き、海岸にもどる橋の上にいた。 眩暈がしたようにまわり景色がぶれ、恐くなって自転車を降りた。

その後、ようやく5月に石巻へ行くボラバスを見つけてガレキ撤去作業の手伝いをしたが、わずか車内1泊の短い作業。被災地全体の小さい小さい1点を垣間見ただけだった。 

6月、ボラ団体に加入して、現地で寝泊りして、何かできないかと思った。ようやく登米に本部のあるボラ団体にたどり着き、交通費節約のためひたすら国道のみを使って仙台に着くと、コンビニの駐車場で明け方まで仮眠し、そこから被災した海岸をえんえん南三陸まで走り、登米まで行った時の風景は忘れられない。 そこでは体育館で寝袋で寝泊りして南三陸の志津川・歌津の仮設まわりをしてたくさんの被災者の方達の話を聞かせていただいた。

7月、今度は歌津に直接行き、テントに寝泊りし、その後、9月、10月にはどこのボラ団体にも属さず、被災した現場を歩き回り、いろいろな方と出合った。

そして、行けば行くほど自分の無力を思い知らされ、金銭的にも通うことができなくなった。

そのような中、遠く横浜の地から何かできることはないかと考えた末、こういうことならできると思って、書いた一つが、1年前の宮城の牡蠣のこれだった。 あれから一年、ただただじれったい一年だった。

宮城の牡蠣は、以前の規模に戻るにはまだまだ時間がかかるだろうが、震災後に育てられた1年ものの牡蠣の収穫の時期だ。できれば、車であの海岸線を走り、現地で牡蠣が食べれたらと思うのだ。