宮城県南三陸町、その歌津地区の、伊里前の話


先に書いたブログで、そこの伊里前のコミュニティ、「結」を語る千葉さんのビデオを紹介したが、

その文字起こしをトライした。


聞きなれない方言、用語があるので、漢字におきかえられない所や、聞き取れないところも幾つかある。

追って、機会があれば、直して行きたい。


http://www.ustream.tv/recorded/15604551
5:00から千葉さんのスピーチがあるので、そこまで飛ばしてから聞いてみてください。

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我々のですね、伊里前契約会、


これあのー、実は、元禄6年まで遡る古い歴史のあるホウチュウなんですね

であのー、元禄6年、1694年ていうふうな数字が出てんですけども、ちょとそこ
わたし何かで見たとき書いておいたんですけどね、

いわゆる先代が、この時期にですね、高台から今の伊里前の町 要するに海の方の近くにですね、5人、

5人が始めて住んだらしいんですよ

その5人が、今の屋号ってあるんですけどね、カミチョウギリとか、マエチョウギリというふうな

要するに東京、江戸の方は上部落


さっき画面でみたように、伊里前小学校を上り口に校門を見たときに、町が半分にこうなっている、海沿いに道路が一本あって、そした時に

青森、北海道は、あっちの方は下というふうにしてですね

5人がカミチョウギリ、マエチョウギリ、シモチョウギリ

字は、下、町、切る

そういうふんな五人の屋号の人たちが集まったのがですね、私たちの契約会のまあ元祖なんですね

何をそこでやったかというとですね

まあ、当時、川もあったし、そして海もあるし、そしてまあ平野もなんぼかあったろうけども、でもその仲間の屋号でいう根岸とか、なんかっていうふんな言葉でみると、やはりまだ、湿地帯みたいな状況で、まあ畑作とかなんかがやったかどうだか記録に残ってないんですけどね

問題は、その燃料をとるために山をとにかく伐採したと、

それがその5人でたぶん一冬分の薪、あるいは一年分の薪を5人で伐採して、で切って、切出して、それを燃料にしたと、

そういうふうな作業をその5人で共同で、共同でやったと、


当時、今でも残っている地域あっと思うんだけども、昔は、それぞれ、”ゆいっこ”ってことでね、”ゆいっと”というふうな言葉を使って来たんですね、共同作業を、

で、その木、燃料、全て、そして、冠婚葬祭のご祝儀やら、あるいはその、亡くなった時に、昔は土葬にするために穴掘ったり、そういうふうな作業も全て、"ゆいっこ"って、まあお互いにもちつもたれつというふな感じね


あと戦前戦後物資がないとき、結婚するったって皿がないとか、例えばお祝いにかけつけて泊まったってふとんがないというそういう時代にね、やはりその貸してもらってね、泊めたりね、あと電話もやっぱりみんなで使ってきた。


その流れが”ゆい”、”ゆいっこ”、ということでね

今でも、この震災前までも実はその昔からの流れで、

昔、あの江戸が明治の頃の文献が今回流されたやつのが出てきたんですけども


どうも神信仰があったらしくてですね

伊勢神宮までですね、とうまいにあったた
神様をお迎えする、神様を参拝するってんで、何人かで組んでですね、我々伊里前地区から奥州街道をまわって伊勢神宮までいった話と、

あるいは仙台に出て、あるいは石巻に出て、帆船、船でですね、どっか茨城、あるいは江戸、あるいはって
海を渡って伊勢神宮を参拝していたというふな。


まあ当時からしてみればなかなかできない事をやっぱり神信仰、大漁祈願、五穀豊穣、あらゆるものを、お伊勢参りということでね、代表者が行ってそのお札をもってきて、皆で拝んで、そして皆一年無事過ごせるようにと言った流れが。


それが伊勢神宮までいけないから、実は塩釜神社とたけこま神社に、年に2回づつ行って、そして皆のそういう五穀豊穣、家内安全をご祈祷してもらって、そのお札はやっぱり持ってきて、年に、春、秋、必ず4月の第3日曜、10月の第3日曜、春の総会、秋の総会というふな決めて、何百年間という間、やってきました


だから一番の原点がその5人衆の中での作業、"ゆいっこ"といってふうなのがずーっと。


そしてその、実際77世帯あるんですよ、77所帯あるうち、74個が流されました、3世帯しか残っていません。

まあ、あのー、5名、正直亡くなりまして、まだ8名行方不明ってふうな、伊里前契約会の今のまあ、ちょっと不幸な事が起きてしまいましたけども。

そういう中で先代が薪をとる燃料するためにどんどん人員、子孫を増やして、そして、今現在にいたる歌津町の中でも契約会としては土地、山林をたぶん持っているほうだと思うんです。


50町歩ぐらいあるんですね。その50町歩のうちの30町歩を 実は今回丁度歌津中学校の、我々が避難している場所よりも、そこがたぶん25メータの高さにすっと、30メーターぐらいの高台に30万坪ぐらいの山林があんです。

そこを契約会の会員にこういう説明をして、さっき言った町の町長が、街づくり、とにかく息子だ孫のためにも、もう一回この伊里前契約会のその力で、そして何百年続いてきたこの商店街をまたもう一回その高台に作りなおすと、そして、その町並みは、今まで通りの隣近所、まえよしちょう、その家並みの神社もある、何もある、そして、あたりばとりが今まで何十年行ったり来たりしたつきあいのある町をつくっぺということで
いま正直動いているんです。

だから私がさっき言った通り、息子や孫だっというふうな、とにかく、あの元禄の時の町割りじゃなくて、今、平成のこの町割りを、また伊里前契約会を、とにかく持っている財産を皆に無償で提供して、そしてまた伊里前を、何百年かかるかわかんないけっとも、子供たちさ残して、もう一回町づくりをしなくちゃいけないなーていうふうな考えでおる訳なんです。


こ、こ、こ、こ、契約こ、何団体あるんだけども、伊里前地区400所帯あるなかでも、77所帯我々いさとまえ契約会、元禄6年から始まっている、歴史のある、そしていろいろな災害あった時にも、自分たちが持っている松や杉を部落に提供して、護岸の整備やら、土砂崩れなくなったのりめんをぶったり、常に町には貢献してきて、今でもそういうふうな名の残る場所もあるけれどもね。

だからこの中でもまたここで”ゆい”、一人ひとりがもう一回足元をみて、とにかく昔先代がやってきたように、またゼロから手をとりあって、助け合って、また、高台に町を作ろうぜってふうな、会員一丸となって頑張っています。

そこで今度でてくっと、今の街づくりとはちょっと外れんですけども、


実はその震災の中で阿部先生のきっかけを持ちましてですね、RQの佐々木さんと出会いまして、そしてまたこれからが、こんどは私が考えている町づくりの平行と、実は小学校とあのさっき画面で見たような瓦礫の山を毎朝海をみながらいっていくときに

いつ自衛隊が入って、
入学式も近い、子供たちもこうだっていう時期に、
いつやってくれるんだろうかなーっと思って、
行政に言えば、いつ自衛隊が入っかわからない
で、どうすんだこいつ、いやー、今わかんない

そういう時に、実はちょっと時間あって黙っているうちに、自衛隊が何人かで正直重機を持って片付けたんだけども、その後はまだまだガラス破片やら小石やらで、こどもたちが遊べるような状態でないときに、

RQの本部のほうの広瀬さんが来まして、

千葉さん、ここ子供たち入学するよねっていうから、
んだ、広瀬さん、ここボランティアの力でやってくれねえか、
やります、やります。


その時の広瀬さんの目は、もう、とんでもねー、

この、大きな懐かけてるような、
とんでもない、このー、寛大な気持ちのあの奥深い眼をみて、私は涙を浮かべて
無理な事を今からゆうけども、とにかくたのむぞと、
子供たちが安心して遊べるように頼むぞって、

千葉さん、何でもいいから言ってくれと、
この町が綺麗になるんなら俺たちは何でもやるから、何でも要求しろ
俺もー、ほんとにもー、感動するやら、
俺がいままで一人でできないことを、彼の言葉で、もう一言で勇気づけられてしまって、

もうそれから、RQのボランティアの人にもうふるいを持って熊手をもって砂利一個一個、3日間かかって、校庭を、全部石ころ、なんにも全て、誰がみても、はだしであるいたって怪我のしないような校庭にしてもらって

土手も、この土手は、ほんとは親父、子供のころからあるつじ?なんだけども、広瀬さんはぜんぶここもいいから、前のように綺麗にすっから、ぜんぶそれもやってくれた

その後に中学校、その後に幼稚園、
とにかく子供たちがはいるところは絶対入学式までにはなんとかしないとね

それからもう一つ、中学校のあの下水、全然行政の方で何もなくて、あの雨水の下水に調理する水を流してしまって、暑くなってきてあの蝿やら匂いやら出てしまったから、

この時もRQさん、全部側溝のふたをあけて、全部泥を出して
おくたいの避難場所から何から
300以上をあれを出して、消防ポンプを持ってきて全部側溝を消防ポンプで流して、真水蓄えてるやつ10トン使って、
いいからあとここ絶対ここは使わせないから、校長に対してここだけは使わせないから、ぜんぶ思い切り使ってくれって
素手で触っても脂分もなにもないくらい、その側溝、それもRQのボランティアの皆さんのお陰で、やってもらったし

今回私たちは、今いつも仮設にいって、お母さんと行ってけど、被災した我々は何もこうやってしないでただ動いてんのに、みんな町が日々綺麗になってんのは、全部ボランティアのお陰です。ほんとに。

これはあの、わしもいつも海のほうやらなにやらで言ってますけども、これは私だけの言葉じゃないです。

今回初めて、今までは画面を見て、今までは赤十字に、町内会、区長さんが集めにきて、千円集めた、何集めた。ただそういうな格好で支援してきただけだ。

そういう俺たちがこんなにも国内外から皆支援してもらって、海外のボランティアの人たちも来てもらって、大丈夫ですか、何かやらせてくださいって、こういうふうな現状は、わし達は初めてでした

わたしたちは、海の仲間とも、今度俺たちは何かあった時には何ししたって、

絶対リュックしょって、
絶対いつものこの合羽だの長靴もって、
絶対行くぞなーって、

いつもそういう話が仕事の合間に、きて自ら出てきました

わたしはこんなにほんとに、ボランティアの力なんてのは、画面を見て今までどこの被災地、どこの外国のどこ見てきたって、ほんとにひとごとのような思ってきた自分がほんとに、なんと、こう人たちに守られて、今、今日もこういうとこまできております。


なにも嘘も隠しもしませんが、ほんとにこの学校だけはきれいにしてやるってふうなことが、先生方にもちょっと、やあありがとうって。

誰も行政でやってくれないから、私が自主防災でいる立場から、ほんとに行政とはもう私が何回も言ってわかるとおり、ぜんぜん今回は動いてくれませんでした。

なおさら合併して、志津川、歌津、って風な、いつから格差がでたんだか、物資の配分も全てが、志津川、ゆいで、わたしたち歌津の方にはまあ数もそこそこ種類もそこそこ、全然来ないような状況になって
最後には何するったって本部に聞いてみないとわからないっていうような。

まあここにいる佐々木さんも阿部先生も知っての通り、わたしは自主防災の関係をして、自分のことでできないことはないと思いながら、部下を連れて、町長なり副町長なり会いに行って、総務課長、建設課長なり会いに行って、まあ、地域のために、まあ、家族のためにと思って今までやってまいりました。

とにかく私たち地域の人、何もできなくてっと言いながらも、今回ほど、この日本民族の、この、まだまだ、もっともっと頑張れる姿を見たり、そしてご支援してくださった全て国民の皆さん、あらためてほんとに、ありがとうございます。


何か話になりませんでしたが、感謝の気持ちでいっぱいです。