この千葉正海さんの語り(声)、心を揺さぶります。


で、ぜひ早く日本中の方に伝えたいと、7月5日に切れ切れながら文字起こしを始めました。

さらに幾度も語りを聞き返しながら6日に第一回更新し、そして7日の今、抜けをさらにチェックしたので第二回更新をしました。


聞き間違いの可能性、どうしてもわからない箇所(赤字)、などありましょうが、後はRS市民災害センターからの正式版に期待したいと思います。


http://www.ustream.tv/recorded/15709253
被災地からの声(千葉正海氏:南三陸町歌津地区 伊里前契約会会長)
*RQ市民災害センター 録画日時:2011/06/30


え、どうも
南三陸から来ました千葉です。


まずもってですね、
今回のこの、まさかのこの、
私たちもほんとに想像もしていなかったこの震災に対しましてですね
ほんとに皆様から、そしてまた国内外からですね
多大なるご支援をいただきました。
ほんとにありがとうございます。


え、今、あのー畠山さんも申した通り、

実は私もかき牡蠣?)漁業をやっております
息子も3年ぐらいに帰ってきまして
まあ、家(うち)も建てたり、あるいは船まで買って
孫もできて、というふうな状況ではありましたが
まさかこんな、家まで、そして
仲間までも、失うようなこんな津波にはなるとは思いませんでした


まあ、今、結論で言いますが、
親の時代からとにかく言い伝えられたきたことが、
まさに私はいかされたというふうに思います


まあ何故かって言いますとね

正直ここに家内もいますが
当時かきむき(蠣剥き?)をしてました。
そしてその2日前にですね、
やっぱり小さな津波を体験しました。
その時にはかきむき牡蠣剥き?)をやめてですね、
皆(みな)で、まあ家族、あるいはしおうしている仲間と、
津波こういうもんだああいうもんだと、
実は一度小さい津波でしたけども経験しました


で、息子に、親父、
もしかしたらこれ一週間ぐらいにとんでもない奴がくっかもしれないぞ、
というふうな、正直、意見というか、お話をしていたんですよ、


そして、その当日もそういう話をしながら
実は、午前中、
私があのー昭和35年のチリ津波を経験していましたので
実は息子、あるいは女房にもですね、チリ津波の状況なんかをね話していたんです


でそん時に、じゃ、もし来たらどうするんだ
だ来たらば、息子には女房やらあるいは嫁さん、孫の守って、
小学校の、避難場所が小学校になっていましたので、
そこに逃げろと、
で私は、船を持って逃げっから
で、女房が、
じゃ食い物は今ここにあるおやつ、水、なんなり、練炭、暖をとるためのそういうもの
で足りないものは毛布だと。


で、何だってな、
実はそういう話をしていて
その午後に荷を詰めて組合に出すかなーって
じゃぐち(蛇口?)開いたと同時にあのー、地震が来ました


まあ最初はまあ普通の地震だろうと思って、
んまあって思っていたんだけども、
なんだ、とにかくとんでもねー何十年生きてきて、もう経験したことのないような、もうとんでもない揺れの地震だったもんで


さっき語ったこととるぞ


そして、それから、その、始まりました


なんせ、皆パニック状態で、
実は後ろにいるあの独居老人の年寄りがいるもんだから
おかあさんがまずその年寄りの人に掛け声をして
そして今度、私があのーまさかまさか来ないだろうと思っていながらも、
そのフォークリフトの整理やらばんじょの整理やら、何やら、


どういう訳だか停電になって電源入ってないのに
冷凍機のその回っている運転の操作盤、わざわざ見に行って電源が入ってねえな、
帰り、なんだ電源入ってないなんて当たり前だ、停電なんだなんて
あほみたいな行動をとりながら
自分でもこう、そういうような時間なんですよ


しかしながら、息子さ、行って家族見てこ、と、
その揺れる間にも息子が行って見て来た帰りに、親父船出せ


持ってきたのは毛布と練炭二個


私もすぐ、言う事聞いて すぐ即座に出しました


その時間はだいたいは10分は経っていません


だから結局、さっき言った今言ったその判断がここに、
その判断が最後には家族で決断して、なるたけ早く行動を移して
私は海にすぐ逃げた
残された人たちはあの小学校のその避難場所に逃げたと


これで良かったんだな


皆にもこれ、いつも言うんだけども、
最後のやっぱ決めるのは、
やっぱり、今言ったように、
国のなになにが何であろうと、
一つの家族がたまたま俺であろうと、
決断するのはやっぱりそこのやだいって、やべって言うんだけどね俺たちは、
要するにそこの世帯主、あるいは国の主なんですよ


これは、この経験を私は親から伝えられてきたこの津波が地震がなったらその津波の用意をしろっつー
これが生かされたなーって思います。
これがあったから家族を守ったんだなーっと。


いつも、私はいつもこれは感じていました


ま、そして、私が船に乗っときに、女房があさま近所の人からもらった
実はお酒を一本船に投げて寄越しました。


何すんだこんなものっと言いながらも
もしかしてなー、となんか心にあって、それも積みながら
沖の船に持って行って
エンジンをかけて
最後にもやい綱を投げっ時に
ふっと、もしかして戻られないかなーなんて、こう
弱い気持ちが出てしまったんだけども
女房はうろうろしてまだいるし
息子はなんか片付けようとしてっから
なんか最後に最後に綱を海になげて行く時に
やっぱ、息子さ、大きな声で、ようこちゃん頼むぞー、早く逃げろ


これだけは覚えています


振り返った後に後ろは見ませんでした
湾内を行くときに、その、どうなったかわかんない家族の思いがずっとあったんだけっども
見ないでまっすぐ沖に出ました
途中でいったい誰か仲間がくっかなっと思ったっけ
その仲間も来ませんでした、


こりゃな、と思いながらも、でも、そういう判断、決断を出したんだから
学校さ行ってあとそこにずっと離れていろよっと言う事を必ず言ったから
俺も絶対とにかく帰ってくっぞという気持ちで出て行ったから


もうとにかく前ばで向いて、前ばで向いて、早く早く早く沖さへ抜けねっぺという気持ちで行きました


ところが途中にいつも見る島をみれば、もう今まで見たことない位置まで島のはた旗?)があるし
それを見ながら、どんどん沖に行った時に、いままで親父が伝えてたその歌津崎という崎があんだけど


そこは33がんねって言って
台風とか時化た(しけた)日には、昔は船は今はやりの計器じゃなくてあの羅針盤一つで行った時に、どうしてもそこに潮周りで船が寄せられて、何十艘と船が難破したところがあるんですよ


そのがぼこって出てきたんですね
これがおにぎりみたいなが3個連なっているんですよ
これを昔から通称33がねて風な、そのあまりいいじゃないこの人の命を取るってふうなことを教えられていたんです

それを始めて55年して初めてそれをみながら横切って
沖に出しさしていく時はこれもしかしたらとんでもないことなんだなーっと思いながら


実は今言った大島方面の航路からちょっと10度、進行方向に対して10度ぐらいの沖を見たら
今さっき畠山さんが画面だしたあの
何ていうんですか白い泡だらけの海面が、ふくれた感じがもう前方に迫ってきたもんだから
こりゃーもう、とんでもない、こりゃ、あの、いつか息子に見せられたDVDであのパーフェクトストリームという太平洋ののバンクの操業する実は実際にあったことをあのー映画化したDVDあったんですよ
それとすっかり同じように光景になるなーと思って沖にだしたんだすけどね
ま皆は150メータという水深までもう行って既に行っているんです。


そこはいつもイカ釣りやら何やらでわたしもそこらへんは状況知っているから
あそこまでいけば大丈夫だなー思いながら
実は友達の船が中間でとまってたから、その船頭わかるもんだから

俺も500メートル手前で止まって、もしかしてこのへんぐらいならばカバーできんのかなーと思ってとまりました 


そしてとまっているうちに、
なんかあかりどりが鳴門の渦のように2、3個まいていくその海流の変化、
あるいは下はそこらあたりはだということはわかってんども
妙にソナー、魚探という海の深さを測ったり魚の魚様をみる画面が全て真っ赤に映っているんですね
ふつうだったら、何かありゃ、魚でもいりゃ
画面全部を真っ赤な反応なんですね


何か下にあるのかなと思いながらもこう見た時には、実はそれは魚でもなんでもでもない

潮のうずまいているものすごい勢いの中にいるんですね。


そして舵を切ってもあまりきれない状況を感じた時に
前方にとんでもない直径50メートルぐらいのこの渦がこうできたのを確認したから

津波の第一波の状況かなと思って
もうそれからエンジンフル、フル、全速で
15分ぐらいもう何もどこも見ないでもう走った時に
丁度その水深のいつも言っている状況
80メーターと言う数値を覚えていたんですけど、そこが92,3メータぐらいにふくれたんですね

それが、あとあといろいろな新聞やら雑誌やらで見れば
私たち歌津、志津川湾に入っていった津波の高さだと思ったんですね。


これは、これはとんでもないことになるなーと思いながら
まだまだそれでも皆いるところまでは行きながら、行こうと思って走ったんだけども

今度雪が降ってきたんです。ちょうど。
雪ふってきてもう視界も見えなくなって
あたりに何船いんのかわからなくなる状況になってしまって、後はもう数字を見ながらずっと一晩後はもう130メーターという水深で
ずーっと一晩エンジンをかけて、10メートル以上の風が吹いて ほんとにもうさせるというんだけれども


とにかく水深だけは絶対くるわないようにしてずっと朝までそこにいたんだが
何も情報もいらないし
携帯も入らないし
何ぼ女房電話しても娘に電話しても、ありとあらゆる電話しても電話もはいんないし
ラジオで聞きたいと思っているその南三陸町っとふうな情報はぜんぜん入ってきないし

そのうちに時間があの経ってきたら大船渡、釜石が7メーター、あるいは相馬は10メーターとか
仙台空港が全部水没したなんて、そんな、そんなとんでもない想像もつかないような情報だけが出ました
いつなったら、南三陸町出んのか、出んのかと思って
もう暗くはなるし
そのうち大島方向、気仙沼方向にあの、火の、火事っていう状況で
俺たちの方からちょっと距離があんだけども
町が全部燃えているような勢いで、あの真っ赤になっているしね
もう海は全部その沖で全部油臭い
重油のにおいが全部してくるし


9:30か9:40頃だと思ったんですけど  やっと初めて南三陸町志津川警察署4階水没、というふうなニュースが出ました
もう言葉にも出なくて、いやこれもう志津川警察わかっているもんだから、あれがあの場所で水没っていったら、
我々伊里前地区のあの役場の庁舎もさっきの波で終わってしまったんだな
と言うことは、もしかしたら俺のうちもないんだな
これ、とんでもないことなったんだが
でも、頭の、心の奥には
まさかまさかおらごの部落だけはなー、言うのは
ほんとはありました


そしてとにかくその後何もまた情報が入らなってしまって、
早く夜が明ければ良いなー思いながら、それから11時、12時、1時、2時、こう夜明けがだいたい4時半後になるまで誰か知っている船がいないのかなーと思っていったら
たまたま、俺の脇を俺の部落の隣のその船が通っていったとき
この船の後についていったならば
大きな船はあの衛星電話持っていますから
必ず情報入るなーって思って
その船の後をつけて、夜明けまでその船のそばで待って
そして、いの一番に、夜が明けたとき船名見たら
その船だったんで
声をあげて
いったい伊里前はどうなったんだと言ったら
正海さん、伊里前はもうなくなったって。伊里前なくなったでばって


いやー
もう、正直言って何も持っているタバコ吸わなかったんで
二本だけは残して我慢していたんだけっども
もうその一本つけて もうあと外に出て
力も出ないし何も考えられることもないし
がっかりしてまって、もう
船がね横に倒れようが何倒れようが
しばらくほんとにタバコ吸い終わるまでは、なにも言葉も出なくて
ただ、もう、ただ時間、何を考えたか今も思い出せんけども
そして、まあ何ともなんないから
友達にどうすんだって言ったら
いやーもう瓦礫の山でもう今日は入港できないから俺たちはもう一晩泊まるって言ってけっど
俺は油もないし、なにしたってこの、家族を最後に見届けねえで言った気持ちがあったし、情報でぜんぜん取らねえから
家族と会わなくってもって
友達さは沖に5,60艘ぐらいいたけど
おれは最後に
皆も2回もトライして戻ってきてんだけっど
俺は最後になんとしても帰なくってもって、そこで決断して
たった一艘、その朝は、2時間以上かけて帰ってきました


そしてその想像してた通りの、町の何もなくなった町を見て、
まあ何ていうか言葉にも出ないようなそういうふうな状況を感じながら

なんぼでも早くあいてーなっと思って

あの小学校の坂を上って
小学校の坂を上って見たら、避難場所の小学校の坂が、瓦礫から家からなにからで、車からで

避難場所だって言ったその場所さえもそんな状況になってしまって

これはどこにいんだかと思って
今度中学校の方に行って、やっとそういうふうな仲間がいたから
俺の人たちはどこにいるんだ
いやー、いたと思うんだけども
なんか安否のわかんないこというから
合羽着たまま本部の中に入っていったら
いや、あの隣の近所のとこで夕べは世話なったと言うから
そこに行ったらわかるって
またその上を走っていってその仲間のところに行ったら
実は今朝早く こがたのふるかわの実家の方に行くって 出てしまった
またそこでがっくりしてしまって
なんで動くなって言ったのに
なんで動いたんだ
俺は8:40になんとかして帰ってきたのに
今思えば、何で動いた
そうやってせめて
まあ、後で聞けば 実はこういうわけで
残された家族は家族でやっぱりそういう判断してそういうとこさ向かったんだけども
もう雪で寒くて、もうどうにでもどうにでもならなくなった

山道をどうやっていったんだかもう

とにかく安否の確認ができないまま
4日間、5日間
私は中学校でまあ過ごしました

まあ、さっき言った通り
いつもこうやって話すと
すぐそこさ、いつもは何かに紛れて思い出さなくたっていいんだけっど
今日も皆さんの前でこうやってしまうと
すぐ感動的になってしまうんだけんども

なんでんかんでん俺は、
親にあのー言われてきた、地震があったら津波の用意
高台さ逃げろよって
これを、とにかく生かしたなーと思って
この教訓を俺はいかしたなーって思って
俺はおります


また、ここでの、そしてRQさんとの出会いとか、いまやって

いる契約会のお話の方はあとからの方にまわします

いまなんだかあんまりまた思い出してしまって
いまこのにいる女房にこないだ二人で話したっけ
おもいとこやー沖さださねばよかったなって後で後悔したってから

まあ俺はなにがやったって絶対帰っくって思って、俺はとに

かく生きて帰ってくって思ってきたと言ったんだけども

まあ、皆にこうやってご支援してもらってほんとに
ありがたいし
そのためにはなんとかあの町を復興させて、
あの復興した町を皆に見に来てもらいたいなーって
俺の夢です。
あと次の機会にまた何か次の話をしますので、
今日はこれでご勘弁願います。
ありがとうございます。