2017.03.03「復活信仰における祈り」
・箇所
ルカの福音書24章23節
イエスは生きておられる・・・
・考察
復活の主、イエス・キリスト。
十字架で苦しまれ、死に、
そして三日目によみがえられたイエス様。
四福音書の記者たちはみな声を揃えて言う。
イエスは生きておられる。
「イエスは生きている」
このことは僕たちにとって一体何なのだろうか。
改めて考えてみると、イエスが生きているということは
僕たちにとって信仰の活動力の源である。
もしイエスがよみがえりの主でなければ、
僕たちの信仰はむなしい。
イエスが33年の生涯を歩まれて、
いろいろな奇跡や、ありがたい教えを語っているとしても、
死に勝利できなければ、
そのあたりに転がっている宗教となんら変わりはないのである。
死に勝利するという出来事こそ、
キリスト教信仰の真髄である。
「ほんとうに主はよみがって、シモンにお姿を現された」(ルカ24:34)
からこそ、
キリスト教は本物だと言えるのだ。
僕たちの信じているものは確かだと言えるのだ。
他には絶対にない、揺るがない真理だと言えるのだ。
・適用
では、僕たちは本当にそのことを信じているだろうか?
僕たちの信仰に適用しているだろうか?
僕たちの復活信仰は機能してるだろうか?
祈りは人そのものだと語った人がいる。
祈りの語源を調べていくと、
祈ることは人間の自然本性なのだ、
人間は誰しも普遍的に祈る存在なのだ、
祈ることは、誰しも人間にとって自然のことなのだ、と。
祈りこそ、人間の本性を現す。
なにを祈っているのか、どう祈っているか、
それらを見ればその人がわかる。
そう言っても過言ではないだろう。
ならば、僕たちの復活信仰に見られる祈りとは一体どんなものだろうか。
それは生きておられる存在に僕たちは祈るということである。
これこそキリスト教、祈りの真髄である。
人格を持った普遍的で神秘的な生きておられる存在に僕たちは語りかけるのだ。
なにしろ、「イエスは生きておられる」のだから。
これこそ復活信仰が祈りにもたらす確信である。
僕たちはこの信仰が働いているだろうか。
僕たちが祈る先におられるのは、
生きておられるイエスなのである。
死んではいない。死に勝利されて、復活された。
すべてに勝利された。
僕たちが信じる先にイエスはおられ、
祈る先に聞き耳をたてるイエスがおられる。
なにしろ、「イエスは生きておられる」のだから。
だからこそ僕たちの祈りも具体的になる。建設的になる。中身のある、よりリアルなものとなっていく。
信仰とは復活を信じてしまうくらいアグレッシブで衝撃的である。
でも同時に僕たちの生活に密着する現実的なものでもある。
なぜそうなっていくかと言えば、
僕たちが信じるのは生きておられるイエスだからである。
だから、会話をするし、対話をする。それが人格的な交わりというもの。
そうしていけば祈りは自ずと現実的な身近なものとなっていくのだ。
僕らの信仰は他にはないリアリティーさがある。
でも繰り返してしまうけど、復活を信じてしまうくらい飛び抜けたものでもある。
この二つの緊張が僕らの信仰をさらに高みへとあげて、
神の国(神の支配があるところ)を広げていってくれる。
僕らは声を高らかに、そして恐れながら、喜びながら祈るのだ。
「御国を来らせ給え」と。
その祈りは神の国をこの地にもたらすための祈りである。
とんでもない、びっくりしちゃう祈りだ。
けれども僕たちは真剣になって、信じて、時に自分が握り締めていた領域を委ねて、神の国にしていただくための葛藤と喜びを覚えながら祈るのだ。
僕たちの信仰は非現実的であり、家庭的だ。
何度も言いたい。身近にあるものだ。でも、飛び抜けたものでもある。
僕たちの祈りに「御国を来らせ給え」という非現実的な祈りと、「日毎の糧を与え給え」という現実的で家庭的な祈りがあるだろうか。このバランスがあるだろうか。
キリストを信じるものとして、復活の主を信じて自分の生活にお招きし、歩んでいきたい。
・祈り
今日のディボーションは難しかったです。でもあなたの声を聞くことができて本当に良かったです。僕の必要を神様、あなたが満たしてくださいますように。あなたに僕は依存して、僕の握り締めている領域を明け渡し、神の国にしていただきます。
僕は復活を信じます。御国がこの地にくるということを信じます。あなたが今もなお生きておられ、すべてを支配されている王であるということを信じます。あなたは生きておられる!復活の主、そしてインマヌエルの神!
感謝をしてイエスキリストの御名によって祈ります。アーメン!!