近未来予測
「宇宙ゴミ」っていうのがありますね。
今までの人工衛星とか、そういうのが地球のまわりに残っているっていう、あれです。
思ったんですけど、近い将来「ネットゴミ」っていうのが話題になる気がする。
だって、こういうブログだってそうだけど、ブログは基本無料だから、
アドレスたくさん取れば、いくらでもブログは作れる。
SNSみたいのもたくさんあるし、ツイッターも無料。
そうなると、いくらアカウントを作っても無料。
そして、無料のものっていうのは打ち捨てられてしまうことが多い。
はい、これでネットゴミの出来上がり(笑)。
単に電子データだから、実体がないものだからそうなっているだけで、
今はいいけど、そのうち問題になるんじゃないかなって本気で思う。
このアメブロを運営しているサイバーさんとか、そのへんどう考えてんのかな?
そのうち、無料のネット媒体の中で、価値のあるものと価値のないものに分けられて、
価値のない電子データを掃除(削除)していく職業、なーんていうのも現れるかもしんないなあ。
「ネットデータスイーパー」みたいな(笑)。
そういうのをテーマに、何か近未来小説でも書いてみようかな(爆)。
「当たり前」なことばかり
自分で思っていることが「当たり前」だと思われない、ということがある。
人は自分の生き方が当たり前だと思っているので、ある意味仕方のないことなのかもしれない。
「お風呂に入るのが3日にいっぺんの人」にとっては、毎日風呂に入らないことが当たり前であろうし、
犯罪スレスレの生活をして生計を立てている人にとっては、やっぱりそういう生業が、当たり前だったりするし、
「ちょっとぐらい悪いことをしてもバレやしないさ」って思っている人にとっては、ちょっとぐらい悪いことをするのが、当たり前。
ねえちょっと待って。じゃあ、当たり前ってどこにあるの?
だとすれば「当たり前」は自分の心の中にしかないのかもしれない。
じゃあ、世の中でまことしやかに言われている「当たり前」って、一体何?
「モノが売れなきゃ意味がない。そんなの当たり前」
「生活できなきゃ意味がない。そんなの当たり前」
「手短にわかりやすいほうがいいに決まってる。そんなの当たり前」
え、そんなの本当だろうか?
売れるもの、求められているものが、必ずしも世の中をよい方向に向けているかどうかなんて、結局のところ、誰にもわからない。ただ今このときだけは、求められているっていうことだけであって。
表向き、生活できていても、心が不幸な人はたくさんいるだろう。そういう人を、今までにもたくさん見てきた。
手短なものに、手軽なものにだまされて、自分の日々を無駄にしている人だって、この世にたくさんいる。
「そんなの当たり前じゃん!」
「なんでそんな当たり前なことができないの?」
こんな風に言われることがあっても、それが「その言葉を吐いた人にとっての当たり前である」という事実。
こうした「当たり前」に潜んでいる危険。これこそが「当たり前」の事実なのかもしれない。
難解な言葉ではなく
「ドレミファソラシド」を「CDEFGAH(ツェーデーエーエフゲーアーハー)」と言う。
もちろん、みんながそうした言葉に対して知っているのならいいと思う。実際、ドイツ音名を使うと、音楽上の説明もしやすかったりするので、僕もみんなの共通言語になっている場合は、ガンガン使う。
そういうことを問題にしたいのではなく、問題は指揮者としての態度のこと。
そういう普段使わないような言葉を使って説明とかをしていると、なんだか音楽の知識があるようにも見せかけられたりする。自分は指揮者として知識があるのだぞ、と。
まあ、かくいう自分がそうした傾向が強い人間なので(どっちかっていうと知識偏重の人間なんです。反省…)、そういう気持ちはよくわかる。学校の先生とかが虚勢を張って、自分に知識があることを変にひけらかしているようなことと同じなのかもしれない。
もしかすると、指揮者は人前に立っているから「知識がないと思われると困る」なんて思っているのかもしれない。だって、ドレミファソラシドって言えば、まあ、たいていの人は楽譜を見てわかるはずだ。
音楽をやっている団員が求めているのは、むしろ逆なんじゃないだろうか? 団員は、誰でもわかるような言葉で練習を進めてくれることを望んでいるような気がする。だって、団員が欲しているのは楽しく音楽をすることであって、目の前に立っている人の駄弁や知識を聞きたいのではないのだから。
知識は、人にひけらかすためのものではなく、自分の考えを広げるためのもの。あくまで考えるための道具。
団員の前で、妙な知識をひけらかそうとしてはいないか? 自戒を込めて。
見えない幸せ
大学とか高校で音楽をやっている人なら、自分が今通っている通り道や、音楽をしている場所を、頭の中でイメージしてみてください。
イメージできました?
それは部室だったり、教室だったり、駅から学校への道だったり。いろいろだと思う。
じゃあ、その通り道や場所、あなたにとってはどんな場所ですか?
音楽をする幸せな場所だと答えるかもしれないし、はたまた、時には憂鬱な場所であるかもしれない(笑)。
そんなのは、別にどっちだっていいと思う。でも、一つだけ言えることは、もしあなたがその場所を離れて、何年か経ってその場所を再度訪れたり、再度歩いたりしたら、
「ああ、あの時の自分は、本当に幸せな時間を過ごしたのだな」
と、心の底から思えるはずだ、ということだ。
その場所にいることが、その道を通っていること自体が、とっても幸せなことなのだ。でもしかし、その時にはそれを幸せだと気づけないことが多い。
なんでこんなことを言っているのかというと、昨日実際にそういう体験をしたからだ。たまたま、かつて自分が通った道を歩いた時、なんていうか、当時の幸せを感じたというか、言い方はあまりよくないけど「自分で自分をほめてあげたい」なんていうことを感じたのだ。
人の幸せというのは、その幸せの瞬間に感じることは至難の業。でも、あなたが音楽をしているその瞬間には、間違いなく幸せがあるということ。
今のあなたの状況がどうであれ、音楽をひたむきに続けている今のあなたは、きっと幸せに包まれているはずですよ。
実践が先、知識は後
大学などの合唱団で、新入生や音楽に対して経験が浅い人が団に入ってきた場合、どのように対応するかというのは、きちんと考えなければいけない問題と思う。
実際、僕が関わっている団なんかは、入ってくる人の大半が、今まで音楽をやったことがないという人がほとんど。それでも、ピアノとかをやっている人ならまだいいけれど、全く楽譜が読めない、なんていう人も少なくない。
何かの話で聞いたが、大学の合唱団の中には、入団後に「楽典を学ぶ時間」をとって、一通りのことを学ぶ時間を取っている、なんていうところもあるらしい。これはこれで、とってもシステマティックでいいと思う。でも、ちょっと乱暴な言い方だけど、そういうのは逆にまどろっこしいかも、なんて僕は考える。
だって、そういう時間を取ることで、せっかくの音楽を演奏する時間がなくなってしまうから。まずは
「ああ、音楽ってけっこう楽しいんだな」
「音楽やるのってまんざらでもないな」
ということを、そうした人たちにはわかってもらうことが先決。
そもそも、そういう初心者の人というのは、そもそも音楽の楽しさを知らない場合が多い。特に僕の場合は合唱なので、声を出そうと思えば、誰でも音を出すことはできる。だからまずはわからないながらも、音を出してもらう。そうした音楽をやっている時間が楽しいのなら、たとえ初めての人でも、またここに来ようと思うだろうし、音楽が楽しいと思えれば、そうした知識というのは、あとでいくらでもついてくるはずだ。
初めから知識を入れておけば、確かにあとでつまづくことは少ないかもしれない。でも、音楽に知識から入ってしまうと、そもそもその知識のところでつまづいてしまうと、
「ああ、だめだ。こんなの覚えらんない」
「やっぱり自分は音楽の知識がないから…」
というような、変な劣等感のために音楽から遠ざかってしまうことがなくて済む。これが実は一番もったいない。
実践は先、知識は後。音楽の喜びを知ることが先決。音楽はやりながら少しずつ知識を覚えていくほうが楽しい。
初めて入ってきた人たちに、まずは音楽の喜びを提供できているだろうか? 自戒を込めて。
