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名古屋クラシックカフェ♪~クラシック音楽を趣味にしたい人が集まるカフェ~

名古屋でクラシック音楽が好きな人たちのための情報ブログ。お得なコンサート情報やおすすめCD、厳選されたオーディオ紹介など情報盛りだくさん。

おはようございます。
名古屋クラシックカフェ店長です♪
今日の名古屋は薄曇りですね♪

毎日、連載でお送りしている「クラシック 今日の1曲♪」のコーナーです。
過去のその日にあったクラシック音楽のニュースに関連付けて今日の一曲をご紹介していきます。

今日、6月9日はデンマークの作曲家、カール・ニールセン(1865~1931)の誕生日です。

というわけで、今日の1曲は「ニールセン:交響曲第4番<不滅> 第1楽章」
演奏:サンフランシスコ交響楽団 指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット



デンマークで最も有名な作曲家で、現在のデンマーク100クローネ紙幣にその肖像が描かれている。

代表曲に、6つの交響曲(特に第4番や第5番が有名。)、3つの協奏曲(これらの協奏曲はカール・ニールセン国際音楽コンクールで競われている。)、数多くの歌曲・合唱曲などがある。これらの歌曲・合唱曲は、今日もデンマークの学校や家庭などに広く普及し、歌われている。

交響曲第4番は、6曲のニールセンの交響曲の中で最も有名で、シベリウスの交響曲第7番のような単一楽章の交響曲であるが、古典的な4つの楽章に相当する部分が連続しながら、最後に第1楽章に相当する部分の第2主題が蘇るという構成を持つ。第1次世界大戦中の暗い時代に書かれた作品で、音楽と生命の不滅を高らかに歌い上げた交響曲である。

≪今日のおすすめの1枚≫

ニールセン:交響曲第4番<不滅>/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン)


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こんばんわ。
名古屋クラシックカフェ店長です♪
更新をさぼっていたので、3連続投稿です…♪

毎日、連載でお送りしている「クラシック 今日の1曲♪」のコーナーです。
過去のその日にあったクラシック音楽のニュースに関連付けて今日の一曲をご紹介していきます。

今日、6月8日はドイツの作曲家、音楽評論家。ロマン派音楽を代表する一人、ロベルト・シューマン(1810~1856)の誕生日です。

というわけで、今日の1曲は「シューマン:トロイメライ~子供の情景より~」
演奏:ユンディ・リィ



シューマンの生涯…(Wikipediaより)

ドイツ、ザクセン王国のツヴィッカウに生まれる。5人兄弟の末っ子であった。父は出版業者で、著作も行っていた。シューマンはそのような環境の中で、早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作を試み、豊かな才能を示した。息子の音楽の才能を認めていた父は1826年に亡くなり、安定した生活を願う母の希望で法学を学ぶことになり、1828年にライプツィヒ大学に入学した。

しかし、シューマンは音楽家への夢を捨てることができず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、ピアノの練習に励んだ。同年、シューマンの作品『アベッグ変奏曲』作品1が初めて出版された。1831年には改めて正式に作曲も学び始め、ハインリッヒ・ドルンに師事した。しかし、過度のピアノの練習により手を痛めたため、ピアノの演奏を諦めなくてはならなくなり、音楽評論家、作曲家として生計を立てる決意をした(近年の研究では、ヴィークらの証言する「手を痛めた」点は疑問視されている。薬指関節部分の腫瘍が元で指が動かなくなったことが直接の原因であると見られる)。

評論家としては、1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当。1836年には主筆となり、1843年まで務め、活発な活動を行った。

一方、1834年の夏には、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛事件があり、それは『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれるきっかけとなった。その後、ヴィークの娘の名ピアニスト、クララとの恋愛が進行し、2人は婚約した。それはヴィークの激しい怒りを買い、シューマンとクララはつらい思いをせざるをえなかった。そのような日々の中で『幻想小曲集』(作品12)、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』などが作曲された。1839年、2人は遂に訴訟を起こし、翌年結婚が認められた。2人の間には8人の子供が生まれた。

それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンだったが、1840年には歌曲の作曲に熱中し、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』作品24と作品39、『女の愛と生涯』などを続々作曲した。いわゆる「歌の年」と呼ばれる。

1841年は「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲第1番『春』や交響曲第4番の初稿が書かれた。このうち第1交響曲は3月31日にすでに親友となっていたフェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演され、大成功をおさめた。

1842年には『ピアノ五重奏曲』などの室内楽曲が集中して書かれ、さらにその翌年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれるなど、年を追うごとにシューマンの作品の幅は広いものとなっていった。

1844年、ドレスデンに移住。ピアノ協奏曲などの作曲に励んだが、この頃から徐々に精神の均衡が崩れる兆候が出てくるようになり、その危機を脱しようとバッハの研究に没頭、オルガンやピアノのためのフーガを書き、また、1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲した。1848年には唯一のオペラ『ゲノフェーファ』が書かれた。

1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住。同地の明るい風光はシューマンに良い影響を与え、交響曲第3番『ライン』やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲を作曲するとともに第4交響曲の改訂をおこなった。大規模な声楽曲『ミサ曲 ハ短調』や『レクイエム』も手がけた。しかし、1853年には余りに内向的なシューマンと楽員の間が不和になり、11月には指揮者を辞任することとなった(これにはシューマンの指揮者としての能力の欠如も影響している)。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品である。

1853年9月30日、シューマン家に当時20歳であったヨハネス・ブラームスが訪問し、彼は自作のソナタなどをシューマンとクララに弾いて聴かせたが、これに対してシューマンは久しぶりに評論を書き、「新しい道」という表題でその若者を強く賞賛し、未来を予言した。ブラームスは晩年のシューマンの希望の星であった。

しかしブラームスと出会ってから半年もしない1854年に入ると、本人も自覚していた元々の躁鬱、音楽監督時の精神的疲労に加え、青年期に娼婦より罹患した梅毒に起因するとされる精神障害が著しく悪化し、2月27日にデュッセルドルフのライン川に投身自殺を図った。間もなく助けられたが、その後はボン・エンデニッヒの精神病院に収容され、面会謝絶のためクララにも殆ど会う機会は与えられなかった。1994年に当時のカルテが公開され[1]、梅毒の症状が認められた上[2]、シューマンは『デュッセルドルフが消滅した』と真剣に語ったという(医師は病名を巧妙に書き換えていた)。クララは医師に告知されてショックを受けた。

シューマンは病床でも作曲を試みるなどした(この時期に書かれた作品や手紙はクララによって後に破棄された)が、回復しないまま1856年7月29日に梅毒による衰弱が原因の肺炎で死去。最後の言葉は、ワインを指につけて夫にしゃぶらせるクララを腕に抱いて囁いたという「分かるよ」(Ich weiß)であった(クララがその様子を日記に書いている)。

≪今日のおすすめの1枚≫

トロイメライ~ロマンティック・ピアノ名曲集/ユンディ・リ


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こんばんは。
名古屋クラシックカフェ店長です♪
更新をサボっていたため連投です。

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今日はフランスの女流作家、ジョルジュ・サンド(1804~1876)の命日。
多くの男性と恋愛関係をもったことでも有名な彼女は、フレデリック・ショパンとは1838年(マジョルカ島への逃避行)から1847年までノアンで同棲していた。

ノアンに出発する前に作曲されたスケルツォ第2番 変ロ短調は、悲劇的な部分と幸福な部分とが交互する傑作で、ショパンのこの時期の、婚約者の破局と、サンドとの出会いなどの心境を表している。

今日の1曲は「ショパン作曲:スケルツォ第2番 Op. 31」
演奏:ユンディ・リィ



ショパンは生涯を通じて肺結核に悩まされた病弱の芸術家であり、残された肖像画などからも、赤みがかった頬等、その徴表が見られるが、そうした繊細なイメージとよくマッチした作風のものばかりでなく、そうした自らの中の閉塞感を打破しようとする想いや大国ロシア帝国に蹂躙される故国ポーランドへの想いからか、情熱的な作風の曲も多く見られる。


幼少の頃からいろいろな面で才能を発揮し、ユーモアにあふれ、ものまねと漫画を描くのが得意で学校ではクラスの人気者だったという。


後半生は大部分をフランスで過ごした。しかし望郷の思いは終生止むことがなく、死後心臓が遺言によりポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬された。故郷を支配する列強への反発心は若い頃から強く、「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」(シューマン)と評されることもしばしばである。


また、女性との愛の遍歴も伝説を交えて語られることがあるが、特に女流作家ジョルジュ・サンドとの9年におよぶ交際の間には『24の前奏曲集』、『幻想曲』、『バラード第4番』、『英雄ポロネーズ』、『舟歌』、『幻想ポロネーズ』等数多くの傑作が生まれた。


ピアノの技術革新の時代に生きたショパンは新しい演奏技術の開拓に果敢に挑み、自身の練習の意味も込めて『練習曲集』(『3つの新練習曲』を除く12曲)を2つ編んだ。一方で古典の作曲家への敬意は強く(実際ショパンは自身がロマン派に属するという考えを否定した)、特にバッハとモーツァルトは彼の作品に影響を及ぼした。例えば『24の前奏曲集』は5度循環で24の全長短調を経る小品集だが、これは明らかにバッハの『平均律クラヴィーア曲集・24の前奏曲とフーガ』を意識したものである。また心を落ち着けるためにバッハの平均律をしばしば好んで弾いた。前奏曲作品28を作曲したマヨルカ島に持っていった印刷された楽譜は、バッハの平均律クラヴィーア曲集のみであったという。

また彼自身は同時代の有名な作曲家にして評論家でもあったシューマンとは違い、批評活動は全く行わず、音楽作品と文筆作品(ことに詩)との融合にもあまり積極的ではなかったという。

≪今日のおすすめの一枚≫


ショパン:スケルツォ第1~4番/ユンディ・リ


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