古代史への小さな旅

飛鳥寺の蓮 2024.9.15


2024.9.14

京都 高尾山 

 

神護寺での不思議な出会い



2024.9.15

奈良 高市郡明日香村


橘寺(聖徳太子)

飛鳥寺(蘇我馬子)



京都市の西北、高雄にある神護寺の至宝展     
 
この夏、上野の東京国立博物館で、神護寺創建1200年記念特別展が開かれました。

神護寺は、空海が唐から帰国して真言密教の出発点となった場所です。

ご本尊の薬師如来立像(国宝)は、【日本彫刻史上最高傑作】と銘打たれ、寺外初公開だったそうです。
昔、大学時代に、万葉旅行でインストラクターをしてくださった犬養孝先生が、「仏像は人だと思ってご覧になるとよい」とおっしゃったことを思いだしました。

峻厳な中に慈愛に満ちたお姿に一目ぼれしてしまい、空海が身を置いた高雄の修行場にぜひ行ってみようという気持ちになりました。

人生何があるかわからないし、行けるときにと現地に向かいました。

9月になったとはいえ、連日35度という気温が続きます。寺に着いたときにはあと1時間で閉門だと言われ、なにはともあれ、本堂に急ぎました。

ご本尊が東京におでかけの間、本堂では未公開だった秘仏が公開されていました。

ふと気がつくと、初老の上品な紳士が側に来て話しはじめました。

その方は、関西経済大学大樟会広報部部長として、大学と当寺院の不思議な縁を語りはじめました。

この大学が第15代応神天皇の大隅宮跡を校地としていることを推論し、特集記事を書いた同窓会誌を、わざわざ、見ず知らずの私にくださいました。

彼は、東京国立博物館の「神護寺」展にも足を運んでおられたそうでした。仏壇を作るお仕事をされているとおっしゃっていました。


明日は奈良県高市郡明日香村に行こうとしていたのです。
とくに、聖徳太子と蘇我氏のかかわりのある寺を訪れたいと思っていました。

蘇我氏は、武内宿禰の子孫になります。
武内宿禰は、応神・仁徳を含む5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えた伝説上の忠臣なのです。蘇我氏だけでなく、葛城氏などたくさんの中央有力豪族の祖ともされる人物です。

空海の寺と言われる、ここ神護寺で、飛鳥時代の世界に誘われたような、不思議な気持ちになりました。

自分の足で歩いて旅をする中で出会った方々からいろいろ教えていただき、新しい視点で日本の歴史を見直せることは幸せなことだと思います。


京都を早朝立ち、一路、奈良の高市郡明日香村へ車をとばしました。
奈良三山が見えはじめ、稲刈り前の棚田の鮮やかな緑と瓦屋根の家屋や神社が点在する歴史的風致地区にはいりました。

午前中、聖徳太子の生誕地、橘寺に着きました。曇りで風があったのですが、むしむししていました。


もともと、欽明天皇の別宮「橘の宮」だった場所で、天皇の第四皇子である橘豊日命(たちばなとよひのみこと、後の用明天皇)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を父母として、聖徳太子はお生まれになりました。

母上の名にある「はしひと」は、「波斯人」に繋がり、漢語でササン朝ペルシャを表すという人もいます。今のイランのあたりを指すのだそうです。
聖徳太子は青い目をしていたという人もいます。
神秘のベールに包まれた聖人がこの地で生まれたんだと思うと、尊い場所に守られている感覚が生まれます。


聖徳太子は幼名を厩戸皇子(うまやどのみこ)といいました。
現在の正堂は焼失したものを江戸末期に再建したものだそうです。瓦吹屋根です。
太子の愛馬は黒の駒といい、空を駆け、達磨大師の化身と呼ばれたそうです。
太子は、この馬に乗って、諸方で説法したと立看板に書いてありました。
聖徳太子は豊聡耳皇子(とよさとみみのみこ)とも呼ばれたそうです。賢人でもあったわけですね。
なにかと、馬との関わりの強さが印象に残りました。

馬つながり、ということで、続いて、蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳を訪れました。


歴史の教科書では、悪人の汚名を着せられてしまっている蘇我氏です。日本書紀の大化の改新の記述のイメージが定着してしまっています。

大臣家として、武内宿禰の子孫として、大王家をささえてきた中心であったはずなのに。
蘇我馬子は聖徳太子にとって、父方・母方双方の大おじ(祖母の兄弟)であったのです。聖徳太子は、馬子の娘を妃に迎えており、2人は婿(むこ)と舅(しゅうと)の関係でもありました。

こんな巨石で墓を作る知識と技術を持っていたことに、驚いてしまいました。


ころやてこを用いて石を動かすなんて、当時の技術力の高さを物語っています。
ショベルカーもブルドーザもなくて、もしかして、宇宙人の仕業じゃないの、って、謎が解けて安心しました。
仁徳天皇陵墓だといわれる大山古墳は、世界屈指の大きさを誇っていますが、古墳時代の末期の飛鳥時代の古墳も圧巻でした。



岡寺の近くのひなびたお土産屋さんで、「蘇」というチーズに似たお菓子を見つけました。
飛鳥時代、このミルクキャラメルを口にできる経済力を持っていた一握りの人たちは、おそらく中央アジアからシルクロードを通ってきたはずです。
当時、かなりの国際交流があったことが、乳製品「蘇」からうかがいしれますね。

今回の旅の締めは、やはり、飛鳥寺にしました。


蘇我馬子が開基した、日本最古の飛鳥大仏があります。アーモンドのような形をした目が特徴的なんだそうです。
馬子は、この寺に恵慈(百済)と恵聡(高句麗)という名僧を住まわせました。
聖徳太子の師となり、学問を通して精神を鍛え上げた二人です。
熱く仏法を説き、弱者を助け、国際政治をした聖徳太子が実在したと納得できる寺でした。

日本の武士道はここから始まったのだという人もあります。

寺の横にある、蘇我入鹿の首塚です。


645年の大化の改新で、中臣鎌足に虐殺された蘇我入鹿。
実は応神天皇の母の神功皇后に付き従った武内宿禰の子孫であった蘇我氏の宗家が、なぜ首斬りされてしまったのでしょう。

中臣鎌足は、藤原の姓を賜って、その後の時代には大臣を輩出して貴族社会の頂点にたっていったのです。
まるで、蘇我氏とすり変わったかのようです。

蘇我入鹿を讒言している日本書紀の編纂に関わった藤原不比等は、藤原鎌足の次男で、天智天皇の落胤説があります。
その、天智天皇の娘の持統天皇の願いを受けて不比等は日本書紀編纂という国家事業を手掛けたわけです。


藤原氏の末裔の近衛文麿は貴族出身でノブレス・オブリージュの精神で第二次世界大戦時の総理大臣となりました。
しかし、彼には武士道精神が欠けていたのかもしれません。

現在、日本の自民党総裁選の渦中です。
9人の候補者にお願いしたいことは、命がけで日本の領土領海国民を守る知恵と行動力を持つ方のもとでまとまってほしいということです。
武士は弱いものいじめや足の引っ張り合いはしません。和をもって尊しとします。

そして、戦わざるをえないときは、逡巡しません。