去年の夏から時々、家の近くのニューロン麻雀スクールに顔を出している。受講してレッスンを受けているわけではない。経験者コース(上級者コース)というのがあって、いわゆるノーレートフリー雀荘と変わらないシステムになっているので、そこにお邪魔して気楽な麻雀を楽しんでいるのだ。

 

俺はいわゆるギャンブル欲というものがなくて、麻雀でもお金を賭けたいとは思わない。しかしこれまで世の麻雀はお金を賭けて楽しむものというのが常だったので、仕方なくあまり勝ち過ぎない程度のレートで麻雀を楽しんできたのだが、昨今は健康麻雀というノーレート或いは低レートの麻雀が台頭してぐんぐん勢力を伸ばしている。俺にとってはありがたい。

 

麻雀を覚えたての頃はレートの乗った麻雀が好きだった。お金の動きに痺れた。それが好きでなくなったのは、お金を掛けることで生まれる怨恨にうんざりしてしまったからだ。たとえ1円でもレートを乗せれば、俺はそれはもう真剣勝負だと思っている。しかし麻雀好きな人々の中にはお金を賭けておきながらただ気楽に楽しく打ちたいという、俺にしてみれば二律背反のように思える世界を求めている人も多い。いや、そういった世界を求めること自体は別に良いのだ。ただそういう人に限って自分がひどく負けた場合の覚悟が出来ていないことが多い。彼らの期待する気楽に楽しい麻雀は、結果的に勝つか、せいぜいちょっと負けくらいの範囲に収まった場合に限られるのだ。

麻雀は10代の終わりに覚えた。友人たちが打っているのを見て興味を持ったのがきっかけだった。俺が麻雀を覚えたよと言うと、麻雀好きの友人はすぐに俺を卓に誘った。初心者に腕の違いを見せつけてやるという腹積りだったのかどうかは知らないが、初めて人と麻雀を打つ俺を相手に友人は負けが嵩んでゆき、最後に「お前自分が麻雀強いと思ってんじゃねえぞ!」とキレ気味に吠えた。自分で言うのも何なのだが、麻雀は最初から仲間内でなら負けないくらいの力があったようだ。俺を初心者と見込んで麻雀に誘ってくれた人間は、東大や早稲田といった有名大学の知人やら学校の先輩やら色々いたが、結果的に俺が負けることはなかった。早稲田の知人とは何度か卓を囲んだが、「お前よりずっと雀歴長いし場数もこなしてきているのに、初心者のお前に勝てないのが悔しいよ」と呻いた。麻雀腕自慢の先輩は自分の彼女に麻雀を覚えさせようと、二人で初心者の俺と同卓するセットを組んだ。自分の彼女と俺にまとめて麻雀指南みたいなノリだったと思う。結果は俺の一人勝ちになり、挙句先輩の彼女は負けがショックで泣き出してしまった。先輩は彼女が負けた分は自分が勝って取り戻す予定だったようだが、その目論見が外れて大変不機嫌になった。俺もノーレートならば先輩の彼女に華を持たすことも出来たかもしれない。しかしレートを乗せられた以上、やはり勝負は真剣なものとなる。

 

こんな話は、「お金を賭けることで生まれる怨恨」なんて表現するにはあまりに可愛らしすぎるエピソードであるかもしれない。しかし俺にとっては十分に面倒な出来事だったし、相手が初心者だろうが後輩だろうが負けたら「まいりました」で済ませるのが本来であると思っている。「おつかれさま」でも「ありがとう」でもいい。もちろん俺が負けた時も。彼らがそう出来なかったのは、初心者に負けた悔しさや若さもさることながら、麻雀に付帯していたお金の支払いもその一因であったのではないだろうか。

 

勝ち金は達成感を増幅させる。しかし、負け金は敗北の傷に塩を塗る。傷口に塩を塗られた人間が激高するのは仕方のないことだ。ならばそんな塩はいらない。勝者の喜びを増幅させるアメの必要性よりも、敗者を激高させる塩の危険性のほうが問題ではないだろうか。ついついアメの甘さに目が向きがちではあるけれども。ただ一方で、点5程度の賭金で全力すぎる俺の度量が狭かったのかなとか、そういうことを考えなくもない。実際世の中の麻雀愛好家は、なんだかんだでレートを乗せて打つほうが好きな人々の方が多いように思うから。

 

レートを乗せていない麻雀は真剣に打たないという意味ではない。むしろ、ノーレートの麻雀で真剣に打ててこそ本当の麻雀愛好家だと思う。まあどうしてもレートを乗せて打ちたいのであればそれは別に構わないが、要は負けた時の覚悟をしっかりしておきないさいよということだ。麻雀は運の要素に強く左右されるゲーム。上級者が初級者に負けることなど日常茶飯事。そのことを認識した上で勝負に臨むべきでしょうね。