みなさんこんばんは、銀座高須クリニック形成外科専門医の赤石渉です。


さて、杉田玄白の話の続き。


  腑分けへ


ターヘルアナトミアを二冊携え、初の解剖見学へ向かった一向。


腑分けは専門の職人がおり、つつがなく行われました。

これはなんだ、あれはなんだとあーだこーだ言いながら、教科書をめくりながら見学したそうです。


そして出た結論は


ターヘルアナトミアは極めて正確で有るということ。


それまで日本国内の解剖学書は山脇東洋の「臓志」しかなかった。



比べ物にならない正確さだったでしょう。


帰り道に衝撃に打ちのめされた彼らは、ターヘルアナトミアの翻訳という一大事業に取り掛かる事を決意しました。


さて、翻訳作業中の小話も色々あるのですが、、、オランダ語の素養があったのは前野良沢だけであり、殆どの部分の基礎的な翻訳は前野良沢が行ったことが推察されます。


さて、4年の歳月をかけ、あらかた翻訳が完成しました。


  頑固な学者と柔軟なイノベーター


しかし前野良沢は著者として名前を加えることを辞退しました。

それは翻訳が未だ完璧でなく、学者としてのプライドが許さなかったからです。


杉田玄白は訳書を「解体新書」と名付けました。前野の名前を抜くこと、そして出版することは悩んだそうですが、まず世に送り出すことを優先しました。


そして前野良沢の学者としての謙虚な姿勢も素晴らしいですが、杉田玄白の今で言う「社会実装」を優先させた所も素晴らしいです。


  晩年の2人

杉田玄白は名声を上げ、医家としても繁盛し、財を成したそうです。一方で前野良沢は学究を続け、大槻玄沢という著名な蘭方医を育て上げ、晩年、貧しい暮らしの中でも勉学の意欲は衰え無かったそうです。


時代は巡り、明治時代。前野良沢と同じ中津藩出身の福沢諭吉がこのいきさつを知り、前野良沢の功績を世に広め、「日本文明上の重大事件」と位置付けました。


明治26年には正四位の位階が前野良沢に送られ、永遠に彼の名が日本の歴史に刻まれる事となりました。


  余談

あれ、前野良沢の話で終わってしまった。


杉田玄白の逸話で締めます。


エレキテルを作った(修理した?)平賀源内と杉田玄白は親友であったそうです。新しもの好きの2人はきっと馬があったのでしょう。平賀源内が命を落とした時は、

ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」

との名碑文を残しています。


もう一つ、杉田玄白は日本に輸入された当時最新であったプロジェクター(幻燈)も出島商館長の出向先で見かけた事を蘭学事始に記載しています。これが日本初の記録となっています。プロジェクションマッピングの研究をしていて、感動したことの一つです。


駄文乱文お読み頂き有難うございました。


次回は臨床的な事をまた書きたいと思います😃