「さあ、いよいよ出発だ。しかしいつになっても慣れないものだな、イミグレを通るときは」
「出国はともかく、入国するときはね。審査官になにか質問されたら、どうしようって思うから」
「なにも悪いことしてないのに、なぜかドキドキするよな。このときばかりは、みんな優等生だ」
「どんなに怖い格好をした人も、あの場所だけは素直に從うよね。まあ、当たり前なんだけど」

くだらぬことで揉めて出入国拒否されたら、せっかくとったチケットが無駄になってしまう。
悪質な場合には数年間の入国拒否もあり、自然とバカな行動を慎むように自意識が働く。

「たいていは事務的で愛想もクソもないけど、シンガポールでの出国のさいは面白かったよ」
「それ、だいぶ前に聞いたわよ。出国ゲート前に、チキンライスの店がないかって聞いたんだよね」
「ああ。世界的に有名なチキンライス店が残念ながら閉まってたんだよ。朝早くに行きすぎてな」
「そういう会話が、あそこでできるのってすごいよね。ふだんは審査を受ける人でいっぱいだから」

そこで聞いたときは誰一人ならんでなく、その女性審査官はより美味しい食べ方も教えてくれた。

「かるく聞いてみたつもりだったんだが、暇していたんだろうな。タレについて熱く語られたよ」
「たしか三種類あるんだよね。自分なりの味のつけ方でいいと思うけど。で、どうだったの」
「結局、全部いれろといってたよ。つけるんじゃなくて、ぶっかけ風にな。たしかに旨かった」
「そういう現地人からの情報って、素晴らしいわ。こっちなら、納豆にネギと卵をいれることかしら」

たとえがすこし異なるし、正しい食べ方ではないと思うが、とにかく審査官も世間話は嬉しいはずだ、

「あまりやりすぎるのはよくないが、いわば最初に出会う国の顔だものな。お互いに笑顔でいたいよ」
「そうよね。じゃ、入国するときにアウトレットで有名な店を聞いてみてよ。それも女性の人にね」

それだけで私の目的は達成よ、と目をキラキラさせる。旅費の審査官は俺ということを忘れているな。