「ときには演じなきゃいけない場面があるんだよなあ、人生には。本人の意に反してな」
「突然なによ、おなかでもこわしたのかしら。それとも昨日の晩ゴハンが口に合わなかったの」
「俺は子供じゃないんだから、そんなことで機嫌をそこねたりしないよ。立派な大人だからさ」
「でも、前に何人かでドーナツを食べにいったとき、あきらかに言いにくそうな顔をしてたじゃない」

そのときは必至でごまかしていたが、バレていた。みなが美味しいと口を揃える新商品についてだ。

「俺はかなり今ひとつだと思ったんだが、あのときはさすがに同調せざるをえなかった」
「子供がいたからね。彼らがおいしいっていったら、その味覚を否定してもしょうがないから」
「ああ。それと同時に、俺の舌が明らかにアダルトになったことへの寂しさで目がうるんだよ」
「味覚は加齢とともに鈍るというからね。だからビールやブラックコーヒーが飲めるんだけど」

話題がかなりそれた。今夜の英会話サークルで出会った女性の体験談に、すこし考えさせられた。

「婆さんが亡くなってから、爺さんの物忘れがひどいそうだ。たまに母親の名前で呼ばれるんだと」
「それだけ奥さんに愛情をそそいでいた証拠かもね。やっぱり孫より子供なのよ、いちばんの心残りは」
「そうかもしれないな。とりあえず娘として演じるんだと、失望させないように。母親の真似をしながらな」
「すごいよね、感動しちゃうわ。その思いやりと、お母さまとの仲の良さとね。そうじゃないとできないもの」

たしかにそれを自然体で演じるられるのは、家族内でのコミュニケーションがしっかりしていた証拠だ。

「言葉は悪いが、必要のない年数まで生きられるようになったからなあ。俺もいずれはそうなるかも」
「人生にムダな時間なんかひとつもないわ。あなたがあなたでなくなっても、私があなたを覚えているよ」

だから安心して忘れてね、と泣かせることをいう。心配するな、君の夕食がタイムマシンになるからさ。