ヴェニスの夜はやさしい、と地元民はいう。船頭の漕ぎにゆられ、月のうかぶ水路をすすむ。
何百年もつづく街並みは観光客をタイムトリップさせ、陽気な鼻歌がそれを加速させる。

「歴史って、いったい何のかを考えさせられるわね。進化や進歩が良いことなのかって」
「そうはいうけど、完全に観光化されているからなあ。なんか窮屈に感じてしまうぞ」
「やっぱり実際に行かないとわからないものかしら。でも、この時間の流れかたは好き」

こういう旅番組での観光地の映されかたは、どうも上品に澄ましているように思える。
人間なんて泥くさいものだから、もっと猥雑とした雰囲気や場所を紹介してもいい。
だが、旅行にかける行動力は男より女のほうがある。洒落た街並みになるのはしかたない。

「あら、それって男女差別よ。私も屋台めぐりや庶民街を散歩するのは楽しいから」
「違うんだよなあ。もっとこう、汗臭さというか卑しさみたいな部分とか」
「何を求めているのかしらないけど、知る必要のないことをしてもしかたないわ」
「たとえばこの船頭のオヤジが、船から降りるときに客へチップをせびるとかさ」
「やっぱり、あなたにロマンは似合わないのね。旅の後味が悪くなってどうするのよ」

そこに面白さを感じるのかが、男女差である。もっとも個人差はあるだろうが。
なにがスタンダードなのかは、自宅に閉じこもっていてはわからない。
近所の散歩でもよい。そして少しでもそこに旅を感じれば、他者への声かけが気軽になる。

「歳のせいもあるが、所詮は恥のかき捨てだと思うと、俺はとにかく話しかけまくるんだよ」
「そうね。なんかやたらに地元の人としゃべるのが好きよね。たしかに面白いけど」
「ヴェニスの街を作ったのも地元のオッサンたちだからさ。やっぱり本音を知りたいじゃないか」

すると、ウフフと彼女が笑いはじめた。奇妙に思っていると、こう口をひらいた。

「だから私と初めて会ったときは、ボートへ誘ったのね。まるでガイドさんのようだったわ」

そう、二人きりになれるチャンスに格好だったからだ。漕ぎ方を予習した日々が懐かしい。
その大池の景観はヴェニスにはほど遠いが、俺たちの歴史はそこから変わらないんだぜ。