「彼とよりを戻す直接的なきっかけはなんだったの」
「お母さんが亡くなったのよ、彼のね。メイドはいるけど、彼は不在がちだから」
「別居しているあいだ、子供には会ってたの」
「うん、月に一回くらいね。しばらく実家で大学に入りなおして勉強しながらね」
もともと子供をつくる気はなかったそうだが、八歳上の旦那が切望した。
活動的な彼女は育児で家にしばられることを嫌ったが結局、男児を産んだ。
生活は一変し、住み込みのメイドとともに子供の世話をしていたが、
一週間の休暇をメイドに与えているあいだ、精神的な疲労が限度に達したという。
「やっぱりね、ろくに家事をしたことなかったら疲れちゃってね。ミルクもあげなきゃいけないし」
「そのあいだ彼はどうしてたの」
「帰ってくるのは週に二日くらい。ドラマ制作がピークだったから徹夜ばかりしていたわ」
「それでも夫としての義務はありそうだけど。今の日本は相互育児が前提になってるよ」
「香港は物価が高いのよ。なにもかもね。教育費は日本より上かも」
アジア屈指の競争社会は、その小さな都市国家を維持するために年々激しさをましている。
一般家庭では夫婦共働きが必須で、家事全般は東南アジアから出稼ぎにきたメイドが担当だ。
ほとんどの子供は三歳児から週五日の学校やお稽古事を習わされ、
とくにクイーンズ・イングリッシュをつかった幼児教育が人気らしい。その分、費用もかさむ。
「しかし大変だなあ。すくなくとも日本ではメイドを持つ家庭なんて、ほんの一部だよ」
「言葉の問題もあるしね。香港人は、日常生活程度だったら英語はつかえるから」
「で、離婚を決意したのは、メイドが帰ってきてからだね」
「うん。正確には二日前くらいかなあ、彼女がもどってくる日のね。熱が出ちゃったのよ」
蓄積された疲労が40度近くの熱をひきおこし、それでも何とか育児だけはこなしたそうだ。
だが無理がたたり、結局一週間ほど入院するはめに。そのまま実家へ戻ることになった。
「退院したあとはすぐにでも子供に会いたかったけど、うちの親が怒っちゃってね」
「それまでの彼の態度に?」
「それもあるけど、なんで早く連絡しなかったんだって」
「熱でうなっているあいだ、一度も電話とかしなかったの」
「なんか女の意地がそうさせたのかなあ。それと旦那に対して見返してやるって気持ちも」
有名プロデューサーの彼にすこし引け目を感じていたのかもと、彼女はふりかえる。
ふとコーヒーカップをつかんだ左手をみると、指輪がはめられていない。どうしたのだろう。
「あ、気づいた?いまは一緒にくらしているけど、まだ籍を入れなおしてないの」
軽く笑顔をみせながら、バッグに入れられていた携帯電話を彼女は取り出した。
(つづく)
「お母さんが亡くなったのよ、彼のね。メイドはいるけど、彼は不在がちだから」
「別居しているあいだ、子供には会ってたの」
「うん、月に一回くらいね。しばらく実家で大学に入りなおして勉強しながらね」
もともと子供をつくる気はなかったそうだが、八歳上の旦那が切望した。
活動的な彼女は育児で家にしばられることを嫌ったが結局、男児を産んだ。
生活は一変し、住み込みのメイドとともに子供の世話をしていたが、
一週間の休暇をメイドに与えているあいだ、精神的な疲労が限度に達したという。
「やっぱりね、ろくに家事をしたことなかったら疲れちゃってね。ミルクもあげなきゃいけないし」
「そのあいだ彼はどうしてたの」
「帰ってくるのは週に二日くらい。ドラマ制作がピークだったから徹夜ばかりしていたわ」
「それでも夫としての義務はありそうだけど。今の日本は相互育児が前提になってるよ」
「香港は物価が高いのよ。なにもかもね。教育費は日本より上かも」
アジア屈指の競争社会は、その小さな都市国家を維持するために年々激しさをましている。
一般家庭では夫婦共働きが必須で、家事全般は東南アジアから出稼ぎにきたメイドが担当だ。
ほとんどの子供は三歳児から週五日の学校やお稽古事を習わされ、
とくにクイーンズ・イングリッシュをつかった幼児教育が人気らしい。その分、費用もかさむ。
「しかし大変だなあ。すくなくとも日本ではメイドを持つ家庭なんて、ほんの一部だよ」
「言葉の問題もあるしね。香港人は、日常生活程度だったら英語はつかえるから」
「で、離婚を決意したのは、メイドが帰ってきてからだね」
「うん。正確には二日前くらいかなあ、彼女がもどってくる日のね。熱が出ちゃったのよ」
蓄積された疲労が40度近くの熱をひきおこし、それでも何とか育児だけはこなしたそうだ。
だが無理がたたり、結局一週間ほど入院するはめに。そのまま実家へ戻ることになった。
「退院したあとはすぐにでも子供に会いたかったけど、うちの親が怒っちゃってね」
「それまでの彼の態度に?」
「それもあるけど、なんで早く連絡しなかったんだって」
「熱でうなっているあいだ、一度も電話とかしなかったの」
「なんか女の意地がそうさせたのかなあ。それと旦那に対して見返してやるって気持ちも」
有名プロデューサーの彼にすこし引け目を感じていたのかもと、彼女はふりかえる。
ふとコーヒーカップをつかんだ左手をみると、指輪がはめられていない。どうしたのだろう。
「あ、気づいた?いまは一緒にくらしているけど、まだ籍を入れなおしてないの」
軽く笑顔をみせながら、バッグに入れられていた携帯電話を彼女は取り出した。
(つづく)