解説
平岡浩司
芸術はあらゆる人間によって語り尽くされた。
これからアーティストが目指さねばならないのは、それら全てを越えた事なのである。
絵画をはじめる手前でデッサン力をつけるために、画学生は多くの時間を石膏デッサンに費やする。これが出来ないと美大に入れないのだ。だから一生懸命する。
しかしこの時代、本当にそれが必要なのだろうか。
門田伯龍はこう答えるに違いない。
時間が無い。全てを始めなければ結局何も出来ずに終わっ てしまう。
自分自身を開放するためだけではなく、自分自身を越えるために行動を起こす。それが彼のスタイルだ。それは好き勝手にやる気楽なスタイルではない。そしてそれには形がない。だからフリー・スタイルなのだ。
ところで。 彼の植えたキウイを食べたい。 その味もきっと。 フリー・スタイルだ!
ハロー ジャパン
日本か、何もかも懐かしい。
成田から松山へと向かう飛行機の中、やっと日本へ帰ってきたという実感がわいてきた、アートの作品は船便で自宅に送ってある、とりあえず日本で何をしようか。
もう農業をやる気はない、サングラスに側頭部を剃り上げた髪型、風貌からしてもうアーティストなんだ、アートし続けるしかないだろう。
けどアートで食べていくには自分の作品を売らなければいけない、ひとつひとつが思い入れのある作品だ、あまり安くは売りたくないなあ、などと考えているうちに松山に到着した。
松山の三越の前、人通りはそれほどない、ここでとんでもないことが起こるなんて考えもつかなかった。
正面からこっちの方に家族連れと思われる一団が歩いてくる、女性と男性それに子供が三人、何と言うことだ、まさか松山に帰って最初に出会う知り合いがあの人だなんて、偶然とは恐ろしい。
問題の女性が私に声を掛ける。
「あら、もしかして......」 「もしかしなくても、そうだよ」 「いつ、アメリカから」 「今、帰ってきたところ」 「ねえ、この髪型はなによいったい」
そう言って彼女は私の髪に触って去っていった。 そ、それだけかい・・・・・・。
十七年前、結婚式までしたのに断腸の思いで日本に残してきた彼女が、突然 目の前に現れた私に言ったのは、髪型に対しての揶揄の一言だけなのか、一瞬 思考が止まってしまった、いったい私は何のためにアメリカへ行ったのだろう、この十七年間は何だったのか、一気に十七年の時を飛び越えてしまったかのようだ、とにかく家に帰ろう。
両親に無事帰国の報告をしたら後はとくに何もすることがなかった、この街では私には何もすることがないのか?
アメリカの習慣でFМのラジオのスイッチを入れた、何か音楽が聞きたかった、DJの声はアメリカのFМほど陽気ではないが、しかしこの声、どこかで聞いたことがある、そうだ、あいつだ、この街で当事者以外にあの結婚式のことを知っている唯一の友人だった、FМのDJになっていたのか、ここへ帰ってから何か偶然が多すぎる、そのことに対して特に何かの思いがあるわけではない、ただ偶然が多いという事実でしかないから。
田舎から都会へ出てきた人が都会に「村の理論」を持ち込んでひんしゅくを 買うことがよくある。「村の理論」が大きくなりすぎたのが大企業である。
私はこの街にアメリカを持ち込んでやろう、そしてひんしゅくを買いまくってやるぞ。
せっかく十七年もアメリカへ行ってきたんだ、何かしなくては。
外に散歩に出た、懐かしい風景、あれは・・・・・・、私がアメリカへ行く前に植えていったキウイの苗が大木になっていた。
不法滞在
大学を卒業してから二年が過ぎていた、アメリカに来て十年目だった。
せめて両親が死ぬときくらいは日本にいてやらないといけないな、あの日本にはもう帰りたくない、だけど所詮私は日本人なんだ、いつかは帰るときが来る、日本へ帰ろうか、理由なんかないけど。
しかし、やっかいな問題があるのに気づいた、学生ビザは二年前に期限が切れているが、その後ビザの更新をしていない、そう、私は二年間もアメリカに不法滞在していたのだ。
日本へ帰れるんだろうか、少し不安になった、そして、かなり不安になった、もしかしたら日本に帰れないかも知れない、このままアメリカで刑務所に入るのだろうか、だけど考えても分かるようなことではないので弁護士に相談することにした。 「まだ分からないのですか?」 「いいや、もう分かっている」 「それで、どうなんでしょうか?」 「君は日本へ帰れるよ」 「本当ですか?」 「ああ、帰れるように手続きを済ませた」
もう、嬉しくて飛び跳ねたかった、帰りたくなかったはずなのに。
グッドバイ アメリカ。
ああ、旅は終わったんだ。 慶びと未練を残して。 いろんなことがあったな。 ジノは元気かな、それとブレンダは・・・・・・。 十七年か、本当に長い間ご苦労様。 よくやったよ、自分を誉めてあげたい。 いろいろ世話になったな。 ありがとう、みんな。 ありがとう、アメリカ。 また、来るよ。
ジャパニーズ スタイル 2
ずっと日本で暮らすつもりかい。
アメリカへ行っても英語が分からないから。
本当はアメリカへ行きたいんだろう。
そうなんだ、誰にも言わないでくれよ。
ライフ スタイル
生き方を変えよ。
はい、分かっています。
生き方を変えよ。
二回言うな、元に戻ってしまう。
ターニング ポイント
「専攻を変えたいだって!」 「そうです、その通りです」 「あと4単位で卒業できるんだぞ!」 「そんなもの、惜しくありません」 「農業からアートとはあまりにも違いすぎる」 「もう決めたことです」 「やめた方がいい、考え直せ!」 「いいえ、考えは変わりません」 「なぜだ、卒業できるのに」 「私のスタイルです」
日本だったらこれくらいのことは言われるに違いない。
アメリカでも「考え直したらどうか」とは言われたけど、「NO」の一言で後は何も言わずに変更することができた。
「重大な決心」というよりは「自然な流れ」だったと思う。 自分のやりたいことをやる、なんて自然なんだろう。 やりたくないことをやっている、こんな不自然なことはない。
人間は一生同じ考えではないんだ。 考えが変わったら、生き方も変えないと。 生き方を変えられない人がたくさんいる、なんて不幸なことだ。
他人に相談なんかしてはいけない。 自分のことは自分で決める、そう習った覚えがある。 ストレス社会とか言われているけど。 そんなものとは無縁だ、少なくとも私は。
空いっぱいの星を見た 最高の気分 今夜何かが変わる
雲ひとつない空を見た 爽快な気分 今日何かが変わる
時間ばっかり気にしていずに なにかを起こしてやろうじゃないか 人生のター二ングポイント
波打ち寄せる海を見た 雄大な気分 今に何かが変わる
ゆっくり流れる川を見た 快適な気分 すぐに何かが変わる
他人ばっかり気にしていずに なにかを起こしてやろうじゃないか 人生のター二ングポイント
ストロング スタイル
なんでそんなに頑張れるんだ。
自分が楽しいからさ。
なんでそんなに頑張れるんだ。
他人は手伝ってくれないからさ。
アート クレイジー
実際にアートというものは健康には良くないかも知れない、それは集中力をいかに高めるか、自分との闘いであるから。
集中力を限界まで高めるとどうなるか、飯を食うのも寝るのも忘れて作品に打ち込むことにる。
集中力が途切れたとき、初めて「腹が減った」とか「眠い」とかの人間らしい気分になって、結局は「眠い」の方が勝って眠ってしまう。
こんな状態を長く続けていると栄養失調にでもなりかねな い、だから何かをクリエイトする人は痩せている場合が多いのだろうと思う。
私もアートに転向してからは、何かに取り憑かれたようになって作品に立ち向かって、勝利も敗北も味わった。
もちろん勝敗を決めるのは自分自身である。
アートで一番難しいのは作品の完成のときだ、もちろん始めるときは感性を全開にしてアイディアを出さなければいけないが、このときのイメージと完成間際では時間が経過している分だけ変わって、新たなイメージが時間の経過とともに付け加わっていく、このエンドレスなイメージをどこで断ち切るかその見極めが極めて困難なのだ。
一番いいのは、なるべく短時間で仕上げることだろう、作品の出来映えと費やした時間とは無関係なことが多い。
ある日、ちょっとした事故から足を骨折してしまった。ちょうどその時制作途中の彫刻があったのだが、歩けない、大学へ行って作業を続けられない、それでも作品を完成させねばならない、とても治るまで放っておくことはできない、作品が呼んでいるのだ、この気持ちは物をクリエイトする人なら分かってもらえると思う。
結局、親切な友人に背負ってもらって大学までたどり着くことができた。
まさにクレイジーだ、だけど少しのクレイジーさもなければアートは生まれない、ゴッホもピカソもダリもみんなクレイジーだったではないか。
それはアーティストに限ったことではないはず、無の状態から何かを生み出す人間全てが社会から逸脱しているはずだ、ミュージシャン、ライター、漫画家、映画監督、コメディアン、コーディネイター、プランナー、発明家、それに、哲学者や科学者までも、ガリレオもニュートンもアインシュタインも結局はアートしていたんだと思う。
正常なのはサラリーマンだけかも知れない、いや、もしかしたら、この異常な世の中で正常でいられるというのはかなり異常なことかも知れない、その結果、ストレスを溜めて死んでしまうのだ。
アーティストは決して死なない、そう、個人は死んでも作品は永遠に生き残る、たとえどんなに無名はアーティストでも作品は残せる、作品からは生きていたときの作者が見えてくる。
大学では毎日毎日作品を作っいたか作品を作ることを考えていた。
もう後戻りはできないアートしてアートしてそしてアートする。
全てがアートとともにあって充実した生活を送っていた。 四年間のほとんどの時間をアートに費やしていた。 大学は卒業したがそれでもアートし続けた。 作品を生み出すことに夢中だった。 どこまでも転がり続けた。 決して止まらずに。 アメリカで。 一人で。 ん。
アメリカン スタイル
ケネディはなぜ殺されたんだ。
運が悪かったからさ。
リンカーンはなぜ殺されたんだ。
運が良かったからさ。
アーティスト スタイル
アートって何なんだい。
至上の美しさを持つ物だ。
何がこの世で一番アートなんだい。
決まってるさ、便所の落書き。
アート クラス
もうすぐこの大学の農業科を卒業できる、卒業後は大学院への進学を考えている、もう取得すべき単位もほとんどない、そんなとき大学から連絡が入った、履修届に記入した科目が人数不足のため無くなってしまったので科目変更をしなければいけなくなった。
専門科目ではなかったので別に何の科目でもかまわない、履修科目表を眺めながらぼんやりと考えていたらアートクラスというのが面白そうだなと思った、美術なんてやったことがないしこれに決めよう。
しかし、この何となく決めた選択が実は自分の人生における最大の選択になるとは気づ由もなかった。
アートクラスにはいろんな人がいる、アートを目指している人もいれば、私のようにただ何となく選択した者もいる。
最初の授業に出ていきなり絵を描くことになった、このときのアートの先生が言った言葉は今でも忘れられない。 「あの木を描いてもらう、ただし、あの木を描かすに、あの木を描く」
何を言ってるのか分からない、こんな時は分かっていそうな奴に聞くよりしかたがない、隣の奴に小声で聞いてみた。 「おい、あの先生は何を言ってるんだ」 「それが、俺にもさっぱり分からない」 「おまえ、どうするつもりだ」 「さあ、とにかく何か描いてみるしかないだろう」
とりあえず描き始めるこのにした、考えても分からないときはまず行動を起こすしかない。
この後、みんなの描いた絵はどのように評価されたのか覚えていない、多分かなりの酷評だったに違いない、だがその後の先生の言葉は覚えている。
「アートをやるのに哲学無くしてはできない、哲学が無いから今言った意味が分からないのだ、まず、J・デリダあたりから読め」
アートには哲学がいるのか、知らなかった、この際哲学を勉強してみるのも面白そうだなと思った。
それからJ・デリダの難解な哲学との格闘になった、しかし読んでみても全く意味が分からなかった。
それから毎日、この銅鉄の心臓の男の本を読み続けた。
何十回と読み直した、だんだん分かってきたような気がする、「木を描かずに木を描け」というのは「デコンストラクション」という概念で説明がつく。 「木を見て描こうとする、しかし描くときの木は見たときの木より何秒か時間がたっている、すでに見たときとは違うかたちをしているはずだ、こうやって世界をかたち通りに描こうとしてもそれは不可能である、すべての作業は時間をずらしつつ構築されねばならない」
どうもデリダという人は、西洋の形而上学を否定しているようだ、そういえばこの考えは仏教の考えの「諸行無常」に似ている、日本人にはかえって分かりやすいかも知れないな。
デコンストラクション、グラマトロジー、ドゥールズとガダリのリゾーム、いろんな概念と出会った、常識とは全く違う、アメリカ流の自由な考え方をかなり身につけたと思っていたけど、まだまだがんじがらめの自由だったことに気づかされた。
「脱構造化」これこそが本当のfree styleなのか、そして、さらにfree styleを追求するとそれがそのままアートになる。
言い換えるなら、アートに構造はいらない、いや、いらないどころかいかにして構造から自由になれるかがアートの精神なんだ。
これは私にぴったりだな。
た とえば こ のようにし て文字 を使ってアート したってか まわない、文字とは 読むためだけの ものとは限らないのだか ら、こんなアートが あってもいいと思う、アート は自由なのだから常識に とらわれていてはいけな い世界なんだ、むしろ非常識 の中からアートが生 まれる、常識人には苦痛 かもしれないが 自由人にとってこん な魅力的な 世界は他にない アート 進む道を決 定 アート
だ
