よくよく考えていくと、どうも「自分自身」が重要じゃなかったのかもしれない。「自分よりも誰か」という考え方が出来ている気がする。
何が原因だったのかは覚えていない。ほんの些細な何かがあったのかもしれないが、記憶をたどってみて、何も思い当たらない。
実は、結構最近-といっても小学生の時期かもしれないが-その時に何か起きて、それによって、生まれてからずっとそういう思想なのだ、と考えてる場合もあるかもしれないが。
単純な事で、「自分にとって今のはどうなのか」よりも「他の人から見て今の自分はどうなのか」というのを重要視していた気がする。
「自分が楽しければいいじゃん」じゃなくて「誰が変だと思えば、ああ、俺は変だったんだ」と。
たとえば、楽しかったことや、良かったことでも、他の人の意見で、あれはやっぱダメだったんだ、と、そういう発想になっているんだ。
だから、たった一言でも、他の人の否定的な意見で自分は崩れていく。
確かに考えてみればそんな気がする。あの時も、何度も崩れて、自分主体で頑張ろう、と思ったのに、最終的に、他人からのそういう否定の一言で崩れた。
その後、愚痴った時、他の意見で少しすくわれたのだが、ここでも、自分ではなくて、その人、つまり他人からの一言で、変わっている。
なるほど、自分と言う人間は、他の人からどう見られるかで形成されているんだ。
実は、幸福論でも考えてみようかなとか思って、先ほど記事をきったのだが、ふと考えてみたら、意外と面白い自己分析が出来た。
そういう発想でいくと、いかに「自分が変に見られないか」を考えてきたことが分かる。積極性のなさは、ここから来ているんだな、と。
何かをすると、必ず、何か評価がくる。良いと思われるかもしれない。でも、悪いと思われるかもしれないのも事実。
だから、何もしないことにした。そうしたら、何もこないから。
ゲームが好きだったのは、それは1人だからなのかもしれない。ゲームの中の世界は、現実とは違う。ゲームで何かしても、何も起きないから。それは違うかな?でも、そうかもしれないね。
結局今までの人生を考えた時、楽しかったことを楽しかったと認められないのも、外部情報が自分にとって大きなものになっているからだろう。
多分、テレビのニュースなどで、自分そのものを否定されたら、俺は死ぬと思う。それくらい大きい。
その時に、自分はこうだから、それでいいんだ。なんて思えるようになりたいとは思ったりもしているけど、その考えだって、自分がそういう発想じゃないという事実から来ているわけだし。
そういえば、あの活動も最初は「それいいじゃん」みたいな他の人からの肯定があったからだった。
それが否定だったら何もしなかった。でも、肯定があったから、他の人がいいというのなら、これはいいんだな。って考えたんだろうな。
でも、やっていけば、何か必ずある。肯定だけじゃなくなる。
人が沢山いるんだから、それだけの考え方もある。だから、否定も出てくる。否定が、でてきて、歪み始めたのかな。
そう考えていくとなんだか納得できる気もする。
さっきの自分の発想力の時の「誰かがでてくる」ってそういうことだったのかな。それが、自分の中で大きなものになりすぎて、その存在が、自分を自分でなくしている。
単純にそう思ったから書いた。けど、それが、実はこういう理由から来ていることに、気付いて正直驚いてる。
必要なのは、誰かの「頑張れ」とかそういう言葉だったのかもしれない。
続きます。