一般的にはほぼ知られておりませんが、山梨県立葡萄酒醸造所の初代所長である「大藤松五郎(おおとう・まつごろう、1854–1910)」は、日本ワインの黎明期にを語るうえで、欠かすことのできない先駆者の一人です。
戊辰戦争で会津若松藩が破れ、多くの藩士が職を失う中、藩の軍事顧問であったジョーン・ヘンリー・シャネルの提案で、カリフォルニアに会津藩士の移民村を創ることになりました。この移民村の農場が彼が働いた「若松コロニー」です。
大藤は、この若松コロニーで明治8年までの8年間、スイス人の醸造家の指導のもと、ブドウの栽培から、収穫、圧搾、発酵、樽熟成というワイン醸造の一連の工程を徹底的に学びました。アメリカに滞在した8年間は、当時の日本では到底得られない最新の醸造技術を会得する大変貴重な期間となりました。
帰国後、大藤は内務省の内藤新宿試験場に技術者として採用され、トマトの缶詰の試験製造に携わっておりましたが、これは日本の缶詰発症の地として記録されております。
そして、その後甲府城内に創設された「県立葡萄酒醸造所」の所長として、県令・藤村紫朗からの破格の待遇を受け、就任することとなります。
これは余談ですが、藤村の長男と大藤の長男は、学友であり、この時の大藤のあだ名は「酒造太郎」であったと記録が残っています。
また、明治10年11月27日の「甲府日日新聞」によると、県庁新庁舎の開所式にあたって振舞われた料理は和洋折衷であり、日本料理は魚町の松亭が承り、西洋料理は大藤松五郎の細君が承ったとあり、当時の甲府においては、西洋文化の最先端を持ち合わせていた一家だったことが伺えます。
明治10年に開催された第一回内国勧業博覧会では、出品者「詫間憲久」、製造者「大藤松五郎」の連名でワインを出品し銀賞を受賞しております。「レモンのように爽快で上品」と高く評価され、国産ワインの品質が初めて世に認められた瞬間でありました。
その後、明治10年には2万8896瓶、11年には3万784瓶と、業容を拡大し、パリ万博に日本ワインを出品します。また、研修生の受け入れも行い、1府10県から来ていたという記録も残っています。
しかしながら、明治16年年の醸造を最後に停止し、醸造所の母体である勧業試験所も廃止されることとなります。大藤は中学校の教師として働きますが、明治21年に県庁を退職し、東京に居を構えていましたが、明治23年に52歳で波乱万丈の人生に幕を閉じました。
品種試験、畑の近代化、技術者育成、地域への普及活動など多方面で活躍し、山梨が「日本ワインの中心地」として、産業化の基盤をつくったのは彼の偉大な功績です。




















