3回続けた遠野シリーズの最終回。今回は遠野の原風景を小ネタとして2回に分けてお送りします。

稲荷穴
岩手県遠野市宮守町達曽部

 まずは遠野の早池峰神社に行く途中にあった素敵な湧水の場所です。花巻から早池峰神社に行くには遠野に出るルートと宮守から国道396号経由県道160号に入り馬越峠を越えていくのですが、今回ものすごくおいしい湧水の場所があったのでまずご紹介しますね。
 
ここは通称「稲荷穴」と呼ばれる場所で、案内板にも書かれています。
「こんなところで稲荷様?」と不思議に思ったおいらは、車を止め赤い鳥居の中に吸い込まれていきました。
 
しばらく歩いていくと手洗い場がありました。「何?そばがある!」知っていればここでおそばを食べたのですが、ここでのんびりすると後の予定が崩壊してしまうので泣く泣くお稲荷さんへと向かいました。
 
手洗いの水も抜群にきれいです。
 
 

上に登ると立派な赤いお社がありました。
 

なぜおいらがここに興味を持ったかというと、この近くに大麻部山(おおまぶやま)という山があり、菅原進著の「アイヌ語地名考」 に

「おおまぶ山」は地元の方言で「おおまんぶ山」と呼ばれ、その意味は「岩穴のある山」ということであると伝えられており、これをアイヌ語で解読を試みると「おおまんぶ」とは、=アィヌ語の「オー・マク・ウン・ペ(oo・mak・un・pe)」の転訛で、その意味は、 =「深い・奥・にある・洞窟泉」であります。 したがって、これに「山」を加えて「おおまんぶ山」とすると、その訳は、=「オー・マク・ウン・ペ・シル(oo・mak・un・pe・sir)で、その意味は、 =「深い・奥・にある・洞窟泉の・山」ということになります。

 それこそこの稲荷穴であり、もしかしたらこの穴は人がこのあたりに住むようになったころから存在が知られていたのかもしれないのです。そういった意味でもここはおいらはぜひ寄ってみたかったところの一つでした。

 さらに

菅原進さんは興味深い説を展開し
随想アイヌ地名考 P27-29より引用

ここの「稲荷穴」の前にこれらの「神」が祭られたのはいつからかと申しますと、その始まりは遠い縄文時代からだったと想像されます。ここでは、紙面の都合で縄文時代や弥生時代についての話は割愛するとして、少なくとも、現在の「稲荷神社」や「水神」の原形は古代エミシの時代にすでに存在していたのではないかということだけはつけ加えて置きたいと思います。

そのように思う根拠は、「いなり」の語源が、=アィヌ語の「イナゥ・ウリ(inaw・uri)」の転訛で、その意味は、=「幣壇の・おか」だったと推定されるからであります。

エミシの人たちは「稲荷穴清水」のことを「カムィ・ワッカ(神々の・水)」と仰ぎ、そこの水を汲むとき、イナゥを削ってイナゥ・サン(幣・壇)に立て、現代アィヌの人たちがそうするように、「カムィ、ワッカ・ク・エカリ、ナ」=「神様、水を・私・いただきます、よ」と大自然の「水神」に対する感謝の気持ちを申し述べて礼拝をしてからその恵みの水をいただきました。その時にイナゥを立てる小高い壇が、アィヌ語で「イナゥ・ウリ(幣壇の・おか)」といわれていたと考えられ、それがすなわち、現在の「水神」や「稲荷神社」の原形だったと考えられるというわけであります。

これはとても興味深い説です。稲荷の地名がアイヌ語から来ていたというものなのです。確かに全国一有名な伏見稲荷はもともと酒が造れるほど豊かな水源をもった場所であり、そこある稲荷山(伊奈利山)に鎮座しています。稲荷神自体が地名が先にあったとすれば、興味深い話だと思いません?
 
というわけでこれが稲荷穴です。
 
奥は700mぐらいあるそうですが、途中に滝があって滝壺に落ちたら生きて出て来れないそうです。(おお怖!)
 
その日は蕎麦屋のご主人が水を汲んでいました。おいらもここの水を飲んだのですが、軟水で非常にまろやかな水でした。
 
水を飲んでマイナスイオンを浴びて非常にリフレッシュできる場所でもありますよ。

神遣神社
所在地:岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛神遣峠
祭神:三女神
 
遠野物語第二話に収録される三女神のお話に出てくる三女それぞれがここで別れたという由来から神がわかれるところとして三女神を祀っています。
 
長女が「おろく」、次女が「おいし」、三女が「おはや」というそうです。この名前もおそらくそれぞれの女神がもらった地名から由来し、おろくは六角牛、おいしは石神(現在は石上)、おはやは早池峰をもらったことから来ていると考えられます。
 
なんだかバスの停留所のような神社です。
 
しかし相当昔から早池峰神社の摂社としてあったのでしょう。
 
 
祠の中には三女神をかたどった石板がありました。
 
おそらく後世になっておかれたものだと思いますが、宗像三女神がここまで来ているのは驚きです。以前おいらは三女神はオリオンの三ツ星で、海人族の航海の神であったと説明したことがあります。海人族の末裔がここ遠野に入ってきたのはいつごろのことでしょう?

荒川駒形神社
阿曽沼氏の家臣であった佐々木氏が馬産の神を祭ったことに始まるそうです。古は遠くからの参詣者も列を成し、多くの信仰を集めたそうです。現地の奉納された多くの鳥居や絵馬はその証であり、馬産地遠野を代表する神社です。
祭神は蒼前駒形明神(そうぜんこまがたみょうじん) といわれていますがその昔、荒川高原を越えて宮古方面へと抜ける為にこの神社の前を通る時は必ず下馬し、礼拝をして通ったそうです。
 
おいらが訪れた日はまさに次の日に例祭が行われる日でした。
 
いたるところにのぼりが立っていました。
 
この神社には不思議な伝承があり、かつて、東禅寺という寺の無尽和尚という人がした祈願に応じ、早池峰山の神が白馬に乗って現れ、東禅寺に早池峰山の水を分与した。その際に無尽和尚は神の姿を絵に描き写そうとしたが、描き終わる前に神は去ってしまい、白馬の片耳だけを描き終えることができなかったといわれています。
 
この片耳の馬の絵を東方に祭ったのがここ、駒形神社だといわれています。
 
本殿は階段を上った上にあります。
 
 また旅人が馬に乗ってこの辺りを通ると、年老いた白い馬が勝負を挑んできて追い返してしまったことから、この老馬が早池峰山の軍神なのではないか、という伝説もあります。
 
 本殿の壁には一面におびただしい剣(古代の剣を擬したもの)の奉納がみられます。これは武運長久を願っての奉納だろうとは思います。こうした信仰は日本武尊を祭神とする神社での願掛けによる奉納と修験道で不動明王の宝剣を奉納する2種類があるそうで、日本武尊だと鉄剣、不動明王だと銅剣だそうです。
 
 一見鉄製のように見えます。どうもこんな山奥までヤマトタケル伝承が届いていたというのはおいらは信じられませんでした。そうすると神社に鉄剣を奉納するのは何か別の意味があるのか?とも考えたのです。そういえば山頂に剣が刺さっている姿は全国で見られ、特に霧島山群の高千穂の峰の天の逆矛は有名ですよね。あと日光の男体山や甲斐駒ケ岳等に剣が奉納されている姿が見られます。これはヤマトタケルの伝承と結びつけられたのは後付けで実は剣を山にささげる神事がもともとあったのかもしれません。
 
 本当にここ、荒川駒形神社にはおびただしい数の鉄剣が奉納されています。馬、鉄、海人族と非常に遠野には日本の古代に結び付けるヒントが数多くちりばめられている気がしますよね。
 
 あとやはり駒形神社といえば馬でしょう。
 
 数多くの馬の絵馬も奉納されています。
 
 この神社の少し手前には馬がいました。
 
 これは小型な和種馬?と思ったらポニーちゃんでした。ちゃんちゃん(笑)