持統上皇三河行幸 その十八 遠州遠征説(2)

三社神社

御祭神:天照大神、八幡大神、春日大神、大山祇神

所在地:浜松市中区和合町寸田ヶ谷1103(マピオンにて地図表示)

由来(社伝より)
持統天皇時代の朱鳥御宇郷祖長忌寸奥麻呂主が敬神祟祖の旨を奉じ鎮祀す言伝がある。

地名「寸田ヶ谷宇名」の由来
宇名選定の折、長忌寸麻呂の一字を頭文字に戴き寸田ヶ谷と命名し古代より現在に至るまで現存せり。

 この社伝に出てくる長忌寸麻呂とは一体どのような人なのでしょう?実は万葉集の例の引馬野の歌を詠んだ人が長忌寸麻呂その人なのです。つまり浜松説の根拠として、引馬野の歌を詠んだ歌人が浜松のこの寸田ヶ谷の地名をつけた人なので、当然引馬野は浜松の旧駅である曳馬に相当するのだということです。

それを根拠に大きな石碑が建っていました。


更に長忌寸奥麻呂を考察してみましょう。長忌寸奥麻呂は紀伊国那賀郡を本拠とする長氏の出で、東漢系の渡来氏族といわれています。姓は直から天武11年に連、14年に忌寸を賜りました。正史に記載がなく、詳細は不明ですが持統・文武朝に宮廷歌を残しています。浜松近辺で東漢氏の足跡のある場所は、まず愛知県田原市の阿志神社があげられます。(阿志神社(愛知県田原市)参照)この田原市は愛知県の渥美半島という所に存在していて、この渥美という地名は安曇氏と関係が深いと言われています。また、旧渥美郡には幡多郷という地名もあり、ここは秦氏と関係が深いとも言われています。また、興味深いことにこの浜松の伊場遺跡という遺跡から放生会があったという記述がある木簡が出土しているのです。放生会とは捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める仏教儀礼で、日本では宇佐神宮をはじめとする八幡宮で行われている行事です。ここで重要なのは八幡宮は秦氏の神様でしたよね。つまりこの浜松にも秦氏の足跡があったのです。ほかにも『和名抄』の「麁玉郡」に「覇多郷」(はたごう)があります。現在の東区の半田町や「半田山」のことですが、明らかに「覇多郷」は古代氏族の秦(はた)族の居た地帯なのです。此処から考えられるのは、三遠地方は相当昔より東漢氏や秦氏などの渡来系の人々が住み着いていた土地であり、彼らの壬申の乱の功に報いるために持統上皇は体を無理してでも行幸したということも考えられなくはないと思います。また(まだおいらは壬申の乱の記事はほとんど書いていないのですが)壬申の乱で秦氏、東漢氏は表立って活躍はしてないので、百済渡来氏族らしい藤原氏にしても東漢氏を引き寄せるのはそう容易ではなかったと思われます。それは藤原不比等は自分が権力の中枢に坐ってからのち文武天皇から元正天皇までの間に東漢氏系の人々に壬申の乱の功績として贈位したり賜物、恩勅を施していることからも伺われます。特に秦氏に対して新羅系渡来氏族の統括を任せたのはこうする以外に新羅系渡来氏族を翼下に入れる方法がなかったからではないかとも考えられるのです。そういった政策的な一環として持統上皇の行幸が行われたとも考えられますよね。つまり彼女はあくまでも藤原氏の政治の道具として死ぬまでこき使われたというのは考え過ぎでしょうか?


三社神社の横にある摂社のお稲荷さん、秦氏とのゆかりも感じさせますよね。

縣居神社

御祭神:賀茂真淵大人命
所在地:浜松市中区東伊場1丁目22-1(マピオンにて地図表示)

晩秋の紅葉の時季の写真なので紅葉が奇麗です。

参道を進むと本殿が見えてきます。

明治17年に作られ戦時中一度消失している神社なので造り自体はまだ新しい幹事です。

本殿の中には賀茂真淵先生の肖像画がありました。

この神社の隣には賀茂真淵記念館があります。

立派な造りの記念館です。

ここからもいかに賀茂真淵が浜松にとって偉大な先人であったかが伺われます。

朏三日月稲荷


御祭神:不明
所在地:浜松市中区萩丘2丁目6(マピオンにて地図表示)

この歌碑の裏にこう記されていました。

 長忌寸奥麻呂は持統天皇三河の国御行幸従駕者でも先遣の人でもなく三社神社創建者であり「引馬野に、、、」の万葉集一首は太上天皇参河国御行幸以前の朱鳥年代の遠淡海の国、引馬野を詠みて上皇に旅の土産にと捧げ奉る。文献を確信し肯定するものなり。
 持統天皇、長忌寸奥麻呂、賀茂真淵翁の霊示により一介の野人顕彰の一碑を由緒の地である引馬野の最中央地点「朏(三日月)稲荷社」聖域の此処に建立する。この十字路は古代より三日月の辻と称し世人愛称の地であった。
 古諺に曰く、天に口なし人を以て伝えしむると亦時の然らしむると固而日因縁故事来歴を略記して未来永劫後世人のために老爺心として伝えるものなり。

維持 平成3年辛来11月3日 文化の日
浜松市萩丘住(旧曳馬村) 永田武雄

と、引馬野の歌の歌碑の裏に記されていました。

本殿は稲荷様なので秦氏と持統上皇のつながりは?と突っ込みたくなるのですが、おそらく昔からあったお稲荷さんに近所の永田武雄さんが碑を作ったのでしょう。だって碑の裏にアバウトに引馬野の中央地点って書いてあるんだもん(笑)でも、浜松市民の郷土愛の強さの一端をかいま見た気がします。

三日月の辻にて思いを馳せてみました。
次回は遠江から更に西へと持統上皇を考察して見るつもりです。