宗良親王って皆さんご存知ですか?
 後醍醐天皇の第八皇子(諸説あり)で、父後醍醐の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となるのですが、建武の新政が崩壊し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになります。その後足利尊氏らの蜂起によって父帝の新政が瓦解した後、還俗して宗良親王と改名。以後、 遠江国井伊谷・越後国寺泊・信濃国大河原などを転々とし、南朝勢力挽回のため奮闘します。この間、延元三年春頃、敗戦により一度は吉野へ落ちのびたそうです。興国五年(1344)までに信州大河原城に落ち着き、以後はここを主たる拠点としたらしいです。この宗良親王の足跡が大鹿村にあるのでそこを訪れてみました。

信濃宮神社
所在地:長野県下伊那郡大鹿村大河原上蔵
御祭神:称信濃宮 宗良親王
由来:神社名は、宗良親王が「信濃宮(しなののみや)」と呼ばれたことにちなんでいます。昭和十五年に皇紀二千六百年の記念事業として勤労奉仕によって造営が始まりましたが、終戦までには完成せず、民間の奉賛会の手によって昭和二十三年に完成したそうです。
 
いやー行くの大変でしたわ(笑)こんな道ばっかりだもん。
 
 これが信濃宮です。
 
 だーれもいない場所でなかなか静かでしたよ。
 
 境内には宗良親王がうたった歌碑があり
「我を世にありやと問はば信濃なる 伊那とこたえよ嶺の松風」
 
 「君のため世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば」
この歌は小手指原の激戦の陣頭歌として詠まれた歌だそうです。
2首とも物悲しい歌ですよね。
 
 親王は高宗の支援を得て各地で戦ったがいずれも利なく、30有余年をこの地で過ごし、後に吉野に帰ってるのですが、一説によるとこの地大鹿で亡くなったとも言われています。歌の方では当代随一と称され、代表作とされる歌集『李花集』はここで編纂され、また『新葉和歌集』の選者としてもその名を知られています。
 
 ここからさらに数キロ奥に入ったところにある宝篋印塔です。宗良親王の墓として伝承されています。ほんとは行きたかったのですが、子供がぐずりだしたので今回は泣く泣く割愛させていただきます。なお、この塔の石は伊豆石という伊豆でとれた石を使ってあるそうで、南朝の勢力が広く伊豆まで広がっていたことをうかがわせますよね。

そのほかにも宗良親王にちなんだところが何か所かありました。
 
 コケラ葺きの本堂が残る福徳寺、国指定の重要文化財で長野県で一番古い木造建築物だそうです。
その裏手に宗良親王のパトロンだった香坂高宗のお墓もあるそうなのですがすっかり写真撮るの忘れてしまいました。orz
 
 これはお昼ご飯を食べた「山の食堂 するぎ農園」です。ここも実は古城の跡地で駿木城という南北朝時代のお城があったそうです。
 
 征東将軍宗良親王、NHK大河で太平記をまたやってくれないかなー
そうしたらこの辺がまた観光地になるんですけど、きっと視聴率上がらないよなーwww

そのほか大鹿村には小さな神社が何か所かあったのでご紹介します。

葦原神社
所在地:大鹿村鹿塩字梨原
御祭神:建御名方命
 
一の鳥居には「葦原神社」と書かれています。

 
  しかし、2の鳥居には「諏方本社大明神」と書いてあります。
実は地元では諏訪大社の元社はここ、葦原神社だったという言い伝えもあるそうです。諏訪から来た人は驚いちゃいますよね(笑)
 確かに伝承では建御名方命が鹿狩りの最中に塩泉を発見したと言われているので、相当昔からここは諏訪の勢力範囲ではなかったかとも考えます。
 
 鹿塩には諏訪神社に関係する幾多の伝説があります。

本洲羽 鹿塩の地は古くは「本洲羽」といわれた。その故は建御名方命が鹿塩の険によって高天原軍を防いだからだという。

諏訪本社大明神 鹿塩梨原の葦原神社には、古い鳥居に「諏方本社大明神」の額が掲げられている。本社は「もとやしろと読み、建御名方命が行宮を建て、しばらくこの地にとどめられて後、諏訪へ移られたので、この社を本社というと伝えている。

鹿塩桟敷 諏訪神社の祭典には、鹿塩のために桟敷が設けられていて、これを「鹿塩桟敷」といったと古老は伝えている。

野々宮神社
 
 由緒はよくわからなかったのですが、ここにも立派な歌舞伎舞台がありました。
 
 木造二階建ての切妻造り、間口6間、奥行4間の立派な舞台です。この舞台のある上蔵地区は、明治から大正にかけて浄瑠璃語りの太夫を輩出した歌舞伎熱の高い地域だそうです。

大磧神社
 

所在地 :長野県下伊那郡大鹿村大河原森下3402
御祭神:建御名方命・八坂刀売命・天照皇大神・大物主神・
      天鈿女之命・天目箇命
下青木・上青木・中尾・沢戸の各耕地の神社を下市場の諏訪社へ合祀し、大磧神社と称したそうです。
 
 しかもこの中に入っている神様は十二天や十二神将といったたぐいの天部形をしており、まさに平安時代に始まった、仏菩薩が神の姿になって現れるという神仏習合の形をしているそうです。

  
 ここ、大磧神社の舞台では今でも毎年5月3日に歌舞伎の定期公演が開かれているそうです。

最後に宗良親王のその後
正平7年(1352)親王42歳の時、足利尊氏を鎌倉に討伐の宣令があり、宗良親王は征夷大将軍に任じられ、武蔵野合戦・桔梗ヶ原等に出陣しました。親王は南北朝第一の歌人と称せられ、歌集に「李花集」「宗良親王千首」、選集には「新葉和歌集」があるそうです。
大河原・御所平の風景を詠んだ
「いづかたも山の端近き柴の戸は月みる空やすくなかるらむ」
は非常に有名な歌となっています。
親王御終焉は静岡県井伊谷など各地の説がありますが、大河原終焉を裏付ける古文書が京都醍醐の三宝院に保管されていて、もっとも信憑性のある資料となっているそうです。