持統上皇三河行幸 その十六 持統上皇の行幸の原点

 これまで十五回にわたって連載した三河行幸の謎、今回はやや番外編ですが、持統上皇がもっとも行幸を行った吉野宮滝を訪ねました。そのご報告と行幸の原点を探ってみたいと思います。

 天武天皇が亡くなったのは天武天皇15年(686)年9月9日ですが、実は持統の第1回吉野行幸は持統天皇3年(689)1月18日に行っています。しかもこのとき持統はまだ天皇に即位していなく、即位は持統天皇4年(690)1月1日でその時はまだ天武天皇の皇后・鵜野讃良でしかなかったともいえるのです。そうすると当然大津皇子の反乱(鵜野讃良の謀略説もあるのですが、、、)も天皇空位の頃に起こったことになるのですね。どう考えてもそれは後継者争いの内部抗争と考えられますよね。その後持統は31回もの吉野行幸を繰り返します。つまり吉野は彼女にとって天皇のアイデンティティーを形作る重要な土地であったともいえると思います。

 こうして持統天皇は彼女による2大国家プロジェクト、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営を推し進めるのです。特に藤原京は天武天皇13年(684年)に起きた白鳳地震による津波でダメージを受けた難波京からの避難民が多かったと思われます。この地震と、唐からの侵略危機の気運から起こった九州(大宰府の放棄)からの避難民により急速に膨れ上がった人口を収容すべく、早急の整備が必要とされたと思われます。一説によると藤原京の人口は3万人から5万人といわれています。その後の平城京の推定人口が14万人といわれているので、まだ規模としては小さな都なので、まだ天皇中心の国家の黎明期ともいえると思われます。

 また、この吉野の地は彼女にとってどのような意味をもっていたのでしょう?一つは天武天皇との思い出の場所、壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が挙兵したのがこの吉野・宮滝の地です。また、陰陽五行的に飛鳥から見て吉野は南方向、つまり火気にあたります。五徳終始説から見ると、天智天皇は木気、天武天皇は火気、よって持統天皇は土気にあたると言われています。この土気の持統から見て南の火気が強くなることは自分をも強くする意味があったと思われます。またこの思想から水気の神様を徹底的に弾圧したとも言われています。それが瀬織津姫の封印なのではないのでしょうか。最後に吉野の地自体が特殊な事情を持っていたとも考えられます。それは海人族の拠点であったということでしょう。天武天皇はこれら海人系氏族の力を集め壬申の乱にて大友皇子に打ち勝ちます。まさにこの日本列島を貫く中央構造線自体が海人系氏族の交通路であり、力の源でもあったと思われます。(持統三河行幸 その七 伊勢から三河行幸の理由を考える③ 参照)
 
宮滝の地は近鉄吉野上市駅から吉野川を3キロほど上流へ行ったところにあります。
 
史跡宮滝遺跡と書いてある石碑です。本道の西にある側道に入ったところにあります。
 
このあたりは縄文時代、弥生時代から古墳時代、飛鳥時代、奈良時代にかけての遺跡があり、様々なものが発掘されています。
 
そこから吉野川の川原に降りてみました。
 
神秘的なエメラルドグリーンの淵となっていました。当時持統天皇も禊をした雰囲気をそのままとどめているのかと思うと、なんだか神秘的です。万葉歌人は、この淀みを「夢の和田」と呼び万葉集にも詠っております。

 
小学校の横にあった史跡の解説です。
特に縄文時代の土器はは宮滝式土器と呼び瀬戸内海や南紀に類型があるそうです。また弥生式土器にも熊野地方より産出する岩石が用いられていて、古くから周辺の海の民との交流があったことがわかっています。

今では鉄橋がその上にかかっています。ここより下流が宮滝の祭祀場だったと考えられます。
 
滝といっても大きな瀬という感じですが、おそらく「宮滝は滝にあらず」と貝原益軒が『和州巡覧記』に書いたように、名称から誤解されることが多いそうです。古語の「タギツ」は川水がたぎり流れるところ、つまり激流する「たぎつ瀬」のことですよね。

 そこで持統天皇はどんな力を得ていたのでしょうか?最後のシャーマンとしての神秘的な力なのでしょうか?それとも自らの手を血に汚してしまった禊をしていたのでしょうか?とにかく藤原京では得られない何かを求めてこの地に来ていたのでしょう。


 そんな宮滝に注ぎ込む小さな小川があります。万葉の歌には「象(きさ)の小川」と呼ばれていたそうです。
 
 丁度、吉野川と合流する地点の水のよどみに作られていた橋で、名を「うたたね橋」と呼ばれていたそうです。何時の時代か老朽のため取り壊され、右写真のように碑だけが残っております。「うたたね」の由縁は、源頼朝から追われた義経が吉野落ちのとき、この橋の上で疲れのため、うたたねをしたことからつけられたといわれています。同型同名の橋がこの後に出てくる桜木神社にもでてきます。万葉のうたたね橋はどちらだったのでしょう?

桜木神社
所在地:奈良県吉野郡吉野町喜佐谷字トチサ423
御祭神:大穴牟知命、少彦名命、天武天皇
御由来:天武天皇がまだ大海人皇子といわれていたころ、天智天皇の近江の都を去って吉野に身を隠しましたが、あるとき天皇の子、大友皇子の兵に攻められ、かたわらの大きな桜の木に身をひそめて、危うく難を逃れたいう伝説があります。のち大海人皇子は勝利を得て(壬申の乱・六七二)明日香の浄見原に都を定めて、天武天皇となられたのです。 このあと吉野の宮(宮滝)に行幸されると、篤くこの宮を敬われ、天皇なきあとは、ゆかり深い桜木神社へお祀りしたと伝えられています。


 
 これが上流にある桜木神社のうたたね橋です。
 
 そしてこれは現在の喜佐谷川、つまり「象の小川」です。そういえば象の古和語読み「きさ」は、もともと象が日本にいたのではなく、象牙が天智天皇の時代にはいってきて、木目の牙をもった動物ということで木目という意味で「きさ」という訓をあてたそうです。つまり「象さんの小川」という意味ではなく「木目のような小川」という意味だったんでしょうね。
  
桜木神社には天武天皇もお祀りされています。
 
 拝殿です。
 
本殿は朱塗りになっています。

やはり、宮滝に来ると持統上皇自体が、何らかの自然のパワーをもらいに吉野に来ていたと考えざるを得ません。そうかんがえると晩年の熊野、伊勢、三河行幸も単なる国内巡察ではなく何らかの呪詛や陰陽五行に関わるものとして考えるのが妥当のような気がしてきます。それが孫の文武天皇を思ってのものなのか、はたまた自分の穢れをはらうものなのか、寿命を延ばす秘術を求めてのものなのかははっきりしないですけど、、、、、