持統上皇三河行幸 その十三 三河に伝わる皇子伝承③

大友皇子(弘文天皇)

 大友皇子は天智天皇の第一皇子で、天智の後継者として統治をしていましたが、壬申の乱において叔父・大海人皇子に敗北し自殺したといわれています。ところが、大友皇子は自殺したのではなく、身代わりが死に、皇子は一族の者数名と舟で愛知県岡崎市の矢作地区の大友の地に逃れ、亡くなられたという伝承が存在します。また、このあたりの地名も、大友皇子の乗ってきた舟が二つにわれ、舳先のほうが舳越(へこし)、艫のほうが大友の地についたのが、その名の由来であると言い伝えられているそうです。
 
 西大友町の大友天神社誌より
 大友皇子は自害したといいふらし、一族のもの数名と三河にのがれた。物部・長谷部・村主(すぐり)などの一族がこれに従った。皇子は嘆き悲しみ、後に三河の地で亡くなり、小針の神田に葬られた。従者の長谷部信次が神社を創建して、皇子の霊をしずめた。これが大友神社である。大友という地名もこれによる。

 もしこれが本当なら、このための確認だけでも持統がわざわざ三河に来る十分な理由になると思われます。だってもし大友皇子が生き残っていたのなら、確実に現天武朝にとって最大の敵となるからです。

大友天神社
御祭神:弘文天皇(大友皇子)
所在地:愛知県岡崎市西大友町字天神10

  
 岡崎市西大友町にある大友天神社です。由緒書きには従者長谷部信次等と此の地に流偶し、草庵を結ぶと書いてありますが、実際は大友皇子の従者だった長谷部氏が此の地に落ち延びてきて、ここに近江朝をしのび祠を建てたというのが実際のところのようです。
 
 社殿はとても綺麗にしてあり、地元では厚く信仰されているのですね。例祭は十月十八日だそうです。

 実際に大友皇子がいたのかどうかは謎ですが、これだけの史跡がそろっているのはすごいことだと思います。

神明社
御祭神:天照皇大神、大友皇子、保食神、猿田彦神、建御名方神
所在地:岡崎市東大友町字堀所36

由緒
 「この東大友町は往古入海に沿ひたる処にして壬申の乱(西暦六七三年)大津の軍利あらず。時に大友皇子御舟にて南海を巡りひそかに伊勢の神宮に詣で御玉串を請け更に進んで三河国碧海湾に到り沿岸の地に駐り給ふ。村人相謀り王子の為に館を竹林の中に造りて皇子を住ましめ奉る。今に其処を丸藪と言へり。皇子祠を建て天照皇大神を祀る。当神明社これなり。かくて皇子の御遺跡たるを以って村人此の地を大友と称ふるに至る。後村人等祠を建て大友皇子を祀り大友神社と称す。然るに宝暦二年(一七五三年)五月矢作川氾濫し北野切の災に遭ひ。祠流失明治十二年(一八八〇年)九月再建す。当社は明治九年一月村社に列し明治四十一年十月七日無格社大友神社を合祀昭和十二年十二月八日境内社なる稲荷社。社口社。諏訪社の三社を合祀す。昭和二十八年七月十八日宗教法人となる。昭和三十四年九月の伊勢湾台風により大松が倒れ社殿が倒壊。氏子の献身的努力により昭和四十年十月二十一日立派に竣工し現在に至る。」

 
本当に立派な社殿が建っています。
 
その社殿の北東50mのところに大友皇子の記念碑があります。
 
こんなところに大友皇子の館があったといわれているそうです。

 本当は大友皇子のお墓も探したかったのですが、13:30に名古屋で打ち合わせがあったので断念。一応30分ぐらい探し回ったのですがわかりませんでした。誰か場所がわかる人がいらっしゃったら是非教えてください。

 
西大友町の玉泉寺
 この寺の開基は大友皇子といわれています。

 このように大友皇子はあい愛知県岡崎市に落ち延びたという説は非常に面白く、詳細は衣川真澄著「古代の謎  抹殺された史実」_に書かれています。また大友皇子は神奈川県伊勢崎市や千葉県君津市にもその伝説は伝わっており、真実はいまだに謎です。まあ、おいらみたいな歴史ファンにとっては大友皇子は生き延びていてほしいなとロマンを感じるところですね。また機会が会ったら伊勢崎や君津にも行ってみたいと思っていますのでまた行ったらご報告します。

 弘文天皇の後のお話
 大友皇子は弘文天皇といいます。これは江戸時代、あの水戸黄門で有名な徳川光圀が、大友皇子は実際には即位されたのですが、日本書紀で大友皇子を亡ぼして天武天皇を正統化するため大友皇子は即位しなかったように書いたのだと主張しました。明治時代になり明治天皇がこの説を認められ、明治三年に弘文天皇の贈り名をされ、それ以後歴代の天皇に数えられるようになり、御陵は大津に建てられたそうです。しかし、この話には隠された秘密があると思っています。弘文天皇を主張した徳川光圀の徳川家はもともと三河国加茂郷にあった小豪族の松平氏が発祥といわれています。この松平氏は賀茂氏の流れといわれています。賀茂氏といえば秦氏とともに桓武天皇の平安遷都を支えた氏族ですよね。その賀茂氏の祀る賀茂神社は葵の紋をつけています。葵の紋といえば徳川も葵の紋で共通しています。その辺の話は家康の松平乗っ取り説とかいろいろ興味深いので後日紹介しますね。
とにもかくにも賀茂氏の末裔たる水戸黄門によってみごと大友皇子は1000年以上の年月を経て歴代天皇の仲間入りしたのでした。

 
そういえば豊橋にある賀茂神社は大伴神社も合祀していますね。もしかしたら松平自身が大友皇子の家臣の末裔だったともかんがえられません?そうすると百済=天智朝=桓武よりの平安京=北朝=徳川=明治天皇という流れ、、、、あ、ここまでくるとちょっとトンデモ説になりそうで、、、信じるか信じないかはあなた次第になってしまいますね(笑)