持統上皇三河行幸 その十一 三河に伝わる皇子伝承①
 持統上皇の三河行幸の伝承はこれまでの10回のブログで紹介してまいりましたが、実は三河地方には、持統上皇の皇子の草壁皇子や文武天皇(持統上皇の孫)、さらに天智天皇の子供の大友皇子の伝説があるのでそちらの方も紹介していきます。

 草壁皇子伝承
 文献では三河の江戸時代に著された「二葉松」に記されているのですが、白鳳年間に草壁皇子がこの地に住んだという伝承があって、昔は草壁皇子が宮路山上に祀ったとされる祠が残されていました。ここに、のちに村民らが三神を合祀して鎮守としたのが宮道天神社だといわれています。また、宮路山の南山麓には白山神社という神社があり、そこにある小さな石塔が草壁皇子のお墓という伝承となっています。
 白山神社は地元民でもあまり知らない神社なので案内を詳細に乗せておきますね。

御津の街中から国坂峠方向へ進むと左側にこの看板があります。
 
そこの道を右折してください。車が大きい場合には旧農協の駐車場に止めておくといいですよ。
 
こんな感じの民家の脇を抜けて行き
 
途中から山道になります。


そうすると白山神社が見えてきました。

 
神社にロープが張ってあるのは猪よけだそうですがなんだか結界のようにも感じますよね。
 
こんな辺鄙なところなのに立派なお社が建っています。
 
いまではお祭りとかあるのでしょうか?
  
その脇にありました。伝説の草壁皇子のお墓です。
 
確かに神社には似つかわしい仏塔のようなお墓ですよね。

 以前、ブログでも記したのですが、草壁皇子が仮に壬申の乱の時代にこの赤坂の宮道天神社にいたとするのであれば、10歳の幼少の頃であり、本人がそこで軍勢を整えたというのはほとんど考えられないと思われます。しかし、仮に軍勢を借りるために後の天武天皇が自分の子供を人質に差し出したとあれば話は別です。もともと、東三河には日下部氏(穂別命の末裔と言われる草鹿砥氏)が存在し、おそらく草壁皇子のパトロンともなっていたと考えられます。実際記紀では三河から軍勢の派遣の記録は残ってはいないのですが、可能性としてはあるのではないかと考えています。
 もう一つ、これはおいらの考えなのですが、ここに葬られている人は確かに草壁皇子の末裔であり、歴史から消えた氷上川継ではないかとも考えました。氷上川継は不破内親王(草壁皇子の曾孫)と塩焼王(草壁皇子の甥)とにできた子供であり、まさに天武血統の再現をした人でした。しかし父、塩焼王は藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとして殺害され、本人も天応2年(782年)に謀反をおこした罪により、大和国葛下郡にて捕縛され、伊豆国に配流されたそうです。その後赦免され晩年伊豆守に任じられたのですが、その後の消息は不明なのです。実は伊豆の国造は初めは伊豆氏なのですが、後に日下部氏となるのです。また奈良時代には伊豆に日下部益人という豪族がおり、おそらく彼らが氷上川継をかくまったのではないかと考えています。またここ、東三河も日下部氏の居住地の一つであり、晩年の氷上川継がここに移り住んだのも可能性としてはなくないのではないかと考えています。こうして草壁皇子伝承が旧音羽町赤坂や旧御津町金野に残ったとしたら興味深いとはおもいませんか?

白山神社
主祭神:伊弉册尊
所在地:豊川市御津町金野字横手35番地
由来:創建は明らかでないそうです。昔は妙理大権現といわれ、明治の廃仏毀釈により白山神社と改称し、明治5年10月据置公許となりました。昭和27年4月10日字稲場の稲葉神社を飛地境内神社として合併したそうです。