持統上皇三河行幸 その七 伊勢から三河行幸の理由を考える③

役小角と吉野
 皆さんは役小角(えんのおずぬ)という人はご存知でしょうか?飛鳥時代から奈良時代に実在したといわれている修験道の開祖です。彼は吉野郡吉野町にある金峰山寺を開基した呪術師なのですが、天皇転覆の罪で伊豆大島にながされたり、鬼を使役し空を飛んだとか、富士山頂にたびたび駆け上った等の超人的な伝説を持った人です。この時代に同時期、吉野にいたのが後の天武・持統両天皇なのです。天武天皇が吉野で挙兵し天武天皇に即位した、古代史最大の内乱、壬申の乱が勃発していた頃、役小角は山伏軍団を率い吉野に存在していました。

 そして当時兵隊を持っていなかった大海人皇子に東に行くことを進言し、伊勢にいた磯部氏、度会氏の協力の下、兵を整え尾張、美濃の兵を吸収し不破の関より近江に入り、大友皇子率いる近江朝軍を打ち破り新王朝を開いたのでした。その後、持統天皇の時代になり陰陽五行の法を持統天皇に教示し新国家体制を築いていったのも吉野であり彼女は実に吉野に34回行幸するのです。これは単に天武の思い出を捜し求めたというよりはむしろ、次期の国家体制をどう構築するか陰陽五行の使い手(役小角?)と練っていたと考えるのが妥当のような気がします。

 つまり役小角こそが、天武朝の影の立役者であり、そんな彼が天皇転覆など考えるはずもありません。むしろ伊豆大島流罪は彼に密命を与え、東国を調べさせたのではないかと思っています。それはなぜなのかは後々解明していきますね。
 
吉野と奴国とのつながり

 魏志倭人伝に登場する日本にあったと思われる地名で奴国をご存知でしょうか?金印が発見された志賀島を中心とした博多湾を中心とした1世紀から3世紀に存在した国家で、おそらく安曇族の長が国王を務めていたと思われています。しかし何らかの原因で3世紀に彼らはこの地を離れなければならない事情がうまれ、東へと大移動をしていくのです。
 吉野にもある奴国の地名
 この金印のあった奴国の志賀島は旧称を「筑前国那珂郡志賀島村」といっていました。この「那珂」という地名は「奴の」という意味で「ぬが」(当時はピンインに近かったと思っています)が変化し「なか」になったのではないかと考えています。しかも10世紀に成立した『和名抄』によると吉野川流域も「吉野郡那珂郷」と呼ばれていたそうです。つまり吉野の山中と博多湾の小島はどちらも「那珂」という地名を名乗っていたそうです。また吉野町には「中荘」という地名もあるそうです。これは「那珂郷」の名残であり、この地の宮滝に大海人皇子(後の天武天皇)が挙兵した吉野宮があったところと一致するのです。またこの地は日本書紀にもたびたび登場し、神武天皇が井光(いひか)や磐排別(いわおしわく)の子とであったのもこの那珂郷であり、応神天皇をもてなした国梄(くず)も那珂郷エリアの中にあったそうです。
 
 「那珂」の地名の連鎖
 この「那珂」の地名は実は九州と吉野だけの地名ではありません。秦氏の豊国があった地は「中津」といいますが、これも「那珂」の津なのかもしれません。また徳島県には吉野町(現、阿波市)という地名があり、吉野川が流れています。またその川と並んで紀伊水道に流れ込む川を那賀川といっておそらくこれも「那珂」が由来なのかもしれません。また、奈良の吉野より東に行くと三重県(伊賀国)には「名賀郡」があり、伊勢湾を渡った先が渥美郡となり安曇氏の居住地となっているのです。また滋賀県には安曇川(あどがわ)が注ぎ、安曇川町があります。安曇川町の南隣には滋賀郡があり、もしかしたら志賀島の志賀が滋賀へと変化したのかもしれません。また岐阜県(美濃国)には「厚見郡」、「那珂郷」があり、尾張国には「海部郡」があります。さらに東に行くと長野県(科野国)には安曇野があり、新潟県には「那珂郷」があります。さらに静岡県には「熱海」と伊豆半島には「那賀郡」があり、奴国由来の地名の北限は茨城県のひたちなか市に至っています。これらの地名をつなぐと不思議と海の道が出来上がり、古代日本を支えた一大物流ルートとなっていたのかも知れません。

大海人としての皇子

 大海人皇子はなぜ大海人を名乗ったのでしょうか?これは大海人皇子を養育したのが海人系渡来人の豪族、凡海氏(海部一族の伴部)にちなんでいます。おそらくその当時の日本の情勢として朝鮮半島の騒乱が一大事となっており、そこに軍事介入するための海軍と海からの物資輸送は今以上に不可欠な項目だったと思われます。いまでこそ街道が整備され、物流は船からトラックへと変わりましたが、当時は河川の治水がままならず陸上の運搬はかなり難しかったはずなのですから、、、
 そう考えてみると、海人の軍事力は今の海兵隊のような存在だったんでしょうね。ところで、この凡海氏(大海氏)は大和国忍海郡に住んでいた「忍海」は「大海人」に由来します。この忍海郡は葛城山麓に位置しています。おそらく小角も賀茂海人(おそらく宗像海人系)の出身なので、二人の運命的な出会いがあったとすればこの大海人皇子が幼少期、凡海氏の下で養育されていたときと思われます。そして小角は神童の誉れ高き天才少年であったと思います。そしてその二人を引き合わせたのが、凡海麁鎌(大海麁鎌)だと思われます。
凡海麁鎌は『姓氏録』には阿曇氏を穂高見命の末裔としているのですが、宇都志日金柝命も穂高見命もともに綿津見神の子神とされるので、この両者は同神と見られています。なお、当然その関係は同族の凡海氏にも及んでいます。さらに凡海氏は海部氏の伴部とも考えてられています。ちなみに海部氏は天火明命(アメノホアカリ)を祖としおり、尾張氏とも同族と考えています。
 そうすると大海人皇子はアマテラスを奉るというよりは、天火明命を信奉する方が妥当であり、なぜ記紀では天武天皇元年(672年)6月に彼は朝明郡の迹太川(とほかわ)のほとりで天照大神を望拝したのでしょうか?そこには今の女神アマテラスに隠された海人系のアマテラスの存在があると思うのです。(この辺は次回記述します)
 
さて、ここで凡海麁鎌についても触れておく必要はあると思います。天武天皇が崩御されたときのにおいて天皇の養育した事を述べています。また、大宝元年3月15日には陸奥国にて金を冶す為に遠路派遣されている事からも、製鉄や冶金に関わる人であったと思われます。実はここで一つ重大な鉱物が関与してくるのです。それが水銀です。
 皆さん古代の埋葬品に金メッキがしてあるのを見た事がありますか?古墳時代の鉄剣の柄の部分や馬具等に見事に金メッキがしてあるのですが、あれは実は水銀を使った金アマルガム法という鍍金技術を使っているのです。
 ここで重要なのは水銀の関与です。水銀はこの金アマルガム法に使用するだけでなく、朱丹とよばれ顔料や、船の底や家の柱の防腐剤等にも用いられました。特に日本には丹と名のつく地名があり、
丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前があります。朱砂を精錬すると、水銀となるのです。つまり金鉱石は丹生によって精錬されてはじめて純金となのです。
 実は吉野やその西の葛城は丹、つまり水銀の一大産出地で、この水銀を求めて安曇族は西から東へと移動していったと言っても過言ではないのです。実は中央構造線にそって日本には水銀の鉱床があり、西から九州の佐賀、大分、四国の徳島、奈良県南部、そして伊勢の多気へと至っているのです。そうすると持統天皇の1回目の行幸目的は伊勢神宮の設立の陰に、この伊勢の水銀鉱山の利権の問題もあったと思われます。そういえばアマテラスが移動した丹後や備後も水銀の鉱山のあるところですよね。もしかしたら倭姫命のアマテラスの移動は水銀鉱山の開発という目的が陰に存在していたのかもしれません。倭姫命が天照大神の鎮め奉る地を求め巡幸の途に着くはるか以前、古代から辰砂・丹砂採掘に携わっていた氏族が丹生氏で、その一族が奉じ、丹砂の神であり氏神とも思われるのが丹生都比売神です。丹生氏の出自は九州・邪馬台国の一部の伊都国とされるが、真偽のほどは不明です。魏志倭人伝には邪馬台国が丹を産すると記されています。丹生一族は水銀の鉱脈を求め、九州から出発した。四国を経て紀伊や吉野などに居を置き、さらに各地を探索して辰砂の採掘に従事していました。水銀鉱床は浅く小規模な産出だったため、枯渇したり地下水の出水で掘削の限度に達すると、また他の場所へ移動して新たな採掘を行っていったようです。一族が奉じる祭神や地名の分布から見て、その行動範囲は、九州から近畿、北陸、関東、東北の一部にまで及んでいます。そういえば、和歌山県の紀ノ川沿いに伊都郡という地名がありましたよね。あれはおいらはこの伊都国の住人が東へ移動し居住した名残だと思っています。

修験道と鉱物資源
 話は横道にそれましたが、役小角の伝説地である葛城山と金峰山は豊富な鉱物資源を含む土地柄で、修験道の陰にホラ貝を吹き三鈷杵を降りならすのも、もしかしたら鉱脈を探す何らかの呪術的な行為なのかもしれないと思っています。そうした山の民こそが、大海人皇子のパトロンであったと思っています。そしてそれらは海の道でつながれ、壬申の乱の軍事力の一翼となりひいては天武朝を起こす原動力となっていったのです。そしてその見返りとして伊勢にあった鉱物資源の独占をはかったと考えられています。そして、その修験道の前線基地を伊勢の地に築きました。それがおいらは朝熊山(あさまやま)にある金剛證寺だと思っています。実際朝熊山の峰の一つ、行者山では山頂に役小角の祠があるそうです。そう考えると持統上皇の三河行幸の影にもしかしたらそういった修験者たちがいて、新しい鉱山や鉱脈を探す前線基地を三河に築くために行幸したというのも一つの可能性としてあったと思います。特にまず役小角を東国に派遣し、その内情を調べさせ、彼に会うために三河に行ったとしたら確かに記紀には書けないですよね。

金剛證寺
所在地:三重県伊勢市朝熊町岳548
宗派:臨済宗

 


由来:

創建は6世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれていますが定かではないそうです。平安時代の825年(天長2年)に空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられています。金剛證寺はその後衰退したのですが、14世紀末の1392年(明徳3年)に鎌倉建長寺5世の仏地禅師東岳文昱(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより東岳文昱を開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗し禅宗寺院となったそうです。



 この本堂の背面側の中央にある祠には天照大神が祀られているそうです。また毎朝の勤行時の経文のなかには天照大神、熊野本宮大社、出雲大社などの記述も書かれているそうで、これこそ神仏習合の証ではないのでしょうか?



この朝熊山経塚は平安時代の経典が埋められていたのが、伊勢湾台風のときに崩れた倒木のところから見つかったもので、国宝に指定されているそうです。
また、朝熊山山頂には八大竜王が祀られており、原始的な磐座信仰もあったと思います。

ちなみにこれは九鬼嘉隆の五輪の塔です。実際のお墓ではないのですが、関が原で西軍につき、その後答志島で切腹して果てました。その後息子の守隆がこの地で供養したのがこの塔だそうです。現在でも墓に葬った後、この地方を代表する霊山である朝熊山へ金剛證寺奥の院に塔婆を立て供養する風習があり、奥の院手前に沢山の塔婆が並べられている のです。


この脇にある柱みたいなものなんだと思います?実はこれは巨大な卒塔婆なんですよ。あるものは7mぐらいの大きさでもはや壁ですよ
 
実はこの地から富士山を望むことができるんですよー。でも行った時はよく見えませんでした。奥の院の売店にいたおばあちゃん曰く、よく晴れた朝年に4回ぐらい運がよかったら見えるそうです。
 
展望台から探してみました。
 
たぶんこの方向なんだけどよくわかりませんでした。