これまで主に文献の考察をしていたのですが、実は持統上皇の三河行幸は万葉集にその歌が多数収録されており、今回はその考察をしたいと思っています。

「萬葉集に歴史を読む」  森 浩一
 タイトルは万葉集についての歴史的考察という内容なのですが、実は持統上皇の三河行幸について相当のページ数を使い説明しています。内容は十分あるのであえて前回紹介せず、今回ご紹介します。ちくま学芸文庫から出ているのでお手軽に読めますよ。

萬葉集に歴史を読む (ちくま学芸文庫)/森浩一
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 その内容なのですが、「天武天皇信濃遷都計画と持統上皇の参河行幸」という章で、天武天皇は白村江の敗戦後、唐が2千人規模の軍隊を筑紫に派遣する計画を知り、首都防衛という観点から信濃に遷都する計画があったそうです。実際日本書紀の記述で天武十三年二月に畿内に都を作る計画をしたときに、同時に信濃にも役人を派遣し遷都の現地調査をさせています。そこで、持統上皇三河行幸はその信濃遷都計画の一環として、信濃に至る道は三河と美濃ではどちらがよいのか、自分の目で確かめるのが目的だと書かれています。

 引馬野考
 万葉集におさめられている
「引馬野に におう榛原 入り乱れ 衣におわせ 旅のしるしに」(長忌寸奥麻呂)
に出てくる引馬野について、現在は愛知県豊川市御津がその地として有力なのですが、実は3カ所相当する場所と思われる説があるのです。
浜松市曳馬説
 この説は江戸時代の国文学者、賀茂真淵(1697-1769)は引馬野を浜松市曳馬に、安礼を浜名郡新居町と説明しました。実は浜松市中区和合町に鎮座する三社神社は、郷祖であった長忌寸奥麻呂によって奉祭されたと伝えられており、この伝承もこの説を裏付けるものとなっています。長忌寸奥麿は東漢(やまとのあや)氏の一族で古く日本に渡来した桧前(ひのくま)人です。そういえば東郷公司氏の説で、亡き天武天皇が三河・遠江の東漢氏が壬申の乱で味方しなかった事を不満に思っており、持統は亡き天武が最後まで心配した東三河と遠江の東漢氏の現状調査だったという事から浜松説というのも軽視できないと思いました。
 ただ、この説には1つ大きな欠陥があり、それは安礼の埼を浜名郡新居に批定したことです。実はこの浜名湖の西岸の今切口に続く岬は、1496年の明応地震とその後に起こった津波によりできたものだということが、後にこの近辺の遺跡や文献の調査でわかりました。この大災害は舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引っ越したことから村櫛(現在の浜松市西区村櫛町)という地名が付くほどであったそうです。また気賀の地震の神社の様が流れ着いた(元は新居の神様)など、記録や伝承が残っています。
 よって、「安礼の埼」自体、持統上皇の行幸時に浜名郡新居にはなく、この説自体の信憑性を揺らがせる結果となっています。つまり、遠州地区には当時海に面したところに岬はなく、限りない砂州が広がっている地形だったのです。

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豊川市御津説
 この説は、豊川市御津在住の詩人(アララギ同人)であり歴史家である御津磯夫(本名今泉忠男)が最初に、昭和9年5月1日発行の「発酵」(東京慈恵医大文芸部)に発表され、後に久松潜一の「万葉集の地誌的背景—引馬野、安礼乃埼考—」が発表されたのが昭和9年11月発行の「文学」においてでした。実は今泉忠男はこのとき一介の医学生であり、久松潜一は東京帝国大学国文学科助教授という立場の違いもあったのですが、先行発表した今泉の名前は国文学界では取り上げられず、久松の説が定説となった経緯があったのです。ところがこの事を気にしていた斎藤茂吉は、実際に現地、御津の地に昭和13年11月、持統上皇が行幸したと思われる時期に訪問するのです。これは万葉集の引馬野の歌に出てくる「榛原」を文字通りの榛原ではなく「萩原」ではないかという今泉の説を補強するためだったと思われます。実はこれには裏話があり、この時点で茂吉は『万葉秀歌』を11月20日に出版しなければならなかったので、その裏付けとなる萩原をなんとしても御津で見つけなくてはならなかったのです。こうして茂吉は『万葉秀歌』において引馬野の歌について、「一首の意は、引馬野に咲きにほうて居る榛原(萩原)の中に入って逍遥しつつ、此処まで旅し来つた記念に、萩の花を衣に薫染せしめなさい、というのであろう」と書いた上で「榛原」を「榛の木原」とする説を批判したのでした。
 ところが今度は万葉学者の森本治吉が昭和17年4月に発行された『万葉精粋の鑑賞』の中で「萩説の人は、これを美しい萩の花を摺染できると説く。さういう人人は、榛の木の実が摺染できるという簡単な、それでいて重要な一事実に心づいていないだけでも、萩説は粗漏である」と記されています。つまり実際、大学の国文学者と文壇の歌人たちの間にも少なくともなんらかの溝が存在し、このようなやり取りがあったものと思われます。
 その後、森本治吉は引馬野について東三河説を有力とし、久松博士の論文を紹介するのですが、今泉忠男の名はついに出てきませんでした。きっと国文学者としてのプライドが医師の今泉忠男に先行された事を認めようとしたくなかったのかもしれません。
 地元ではそんな偉大な御津磯夫(今泉忠男)の功績を記念し、記念碑を建立する事となりました。それが前回の持統上皇行在所の碑です。一つの記念碑に歴史ありと言いますが本当にそういうものだなあと実感しました。

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西三河知立説
 愛知県知立市山町を通る旧東海道の松並木に「引馬野」の歌碑がたっています。このあたりの地名は引馬野といい、昔から万葉集引馬野の跡だと伝えられているそうです。この説が本当であれば、松阪市円方より船に乗ってきた持統上皇一行は、三河湾より知多半島東岸を北上し、境川河口に上陸、この地に軍を進めたと思われます。もし大友皇子が生き残っていて岡崎に潜伏したのであれば、この地が上陸地点と考えるのが妥当だと思います。もともと三河は、昔から良馬の産地で、毎年、初夏の頃になると知立で馬市が開かれるのが習わしで、設楽の山地で育った馬が、ここ「ひくまの原」の大草原に集められたものだといわれており、この地で持統は軍を整えたのかもしれません。もっともこの説は昭和28年9月、時の知立町長加藤玉堂氏が知立引馬説を強く主張して自ら万葉歌碑建立の指揮をとったそうです。文献的な考察は特になかったので、おいらとしては検証しようもなかったので説としてのせておきます。