戦国時代の終焉、多数決の原理



こんどう史科医院の歴史ブログ


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馬場美濃守信房戦死の地、主君を守り通した忠臣としていまも武田だけでなくこの地の人々からも畏敬されている。


 長篠の合戦により何が変わったのであろうか?それまでにも鉄砲による戦術は用いられているであろうし、再三述べているように鉄砲によって信長は勝ったのではない。このような戦線をつくり防衛に徹すれば用兵術や兵隊の士気にかかわらず多数のほうが勝利できるという実績を作ったのである。これにより戦闘に勝つには戦闘が始まる前に、烏合の衆でも良いから兵力を少しでも多くかき集めよう。多数派工作が結果を出してくれる。量で行う戦闘をいくつも経験した日本は、多数が勝つ論理を「常識」として会得した。この「常識」のおかげで日本は、戦国時代を終了することができたのである。

 再三紹介させてもらった日本陸軍参謀本部の「日本戦史―長篠役」が発行されたのは、明治36年のことであるが、翌年からはじまった日露戦争では旅順の攻撃で5万人以上の死者をだして、さながら武田勝頼ばりの大損害を出していた。つまり参謀本部からみれば長篠は防御に徹した方が損害が少ないといった教訓は生かされず、鉄砲といった近代兵器の方が騎馬軍団よりも勝るといった火兵偏重の構図のほうが都合がよかったので書き換えられていったのである。



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設楽原布陣図 原本・長篠日記宋堅寺本(新城市設楽原歴史資料館)

 

 このように日本史は時の権力が都合のよいように書き換えられていって、いつまでも教科書や歴史事典に横行闊歩している事柄は多くあり、今回のように実際長篠・設楽原を歩いてみるとそのことの誤解がよく見えてくるので、皆様もぜひ一度この地を歩いて戦国の世に思いをはせてみてはいかが?