野戦築城と鉄砲の威力

長篠の合戦では通説でいけば信長・徳川連合軍3万8千に対し、武田は1万5千、その損害は信長・徳川連合軍の犠牲者6千に対し武田は1万2千、ほとんど壊滅である。このように合戦で壊滅的な被害を受けた合戦は過去にもあまり例がない。これはひとえに野戦築城と火力が合わさると強力な殺傷能力を持つことを表しているのではないか。実際設楽が原に足を延ばすと名和式「鉄砲構え」が再現してあるが、これは柵、壕、土塁が1セットになった構造物でおそらく塹壕に停止した歩兵を鉄砲にて射殺する。また槍衾にて再度とどめをさす。鉄砲は射殺兵器の役割もあったが、長篠合戦のぼりまつりをみてもわかるとおり煙がものすごいので煙幕の役割にもなって塹壕と土塁が攻撃側からわからなかった可能性もある。視覚的には馬防柵のみうっすらと見えたような状態では勝頼側からみれば通常の野戦合戦に見えていたのではないか。しかしそこにあったのはまさに城ともいえる絶対防衛線であった。こうして数時間は互角に合戦をしておると思っていたその時は武田の名だたる武将、兵隊は殲滅戦の餌食になり被害が尋常ではない数になっていたのではないだろうか。



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設楽原にある馬防柵と土塁と堀、名和弓雄氏により再現されている。(筆者撮影


またこの絶対防衛線の殲滅戦におびき寄せるためのおとり部隊も用意されていた。それが佐久間信盛と大久保忠世、忠佐兄弟の部隊ではなかったであろうか。実は合戦が始まり連吾川をはさんで前進した部隊は佐久間勢と大久保兄弟の手勢であった。これは武田方の兵を川沿いに長く分散させる目的もあったであろうし、おそらくこの防衛線の端が最も急所になることは信長・徳川も読んでいたであろう。ならばこの防衛線を隠しあたかも鶴翼の陣の如く当たった方が防衛線に敵をひきつけ、せん滅できると考えたのではないか。実際武田の軍勢を3つに分断できた(馬場美濃守隊、勝頼本隊、山県赤備隊)のであるし、一時は山県隊と馬場隊は連吾川の奥に侵入していることから、緒戦では明らかに信長・徳川連合軍の劣勢があらわされているが、武田の本隊(武田勝頼、内藤修理亮昌豊、原隼人佑昌胤、武田逍遥軒信綱)は鶴翼の突撃成功を確認後に突入したと思われる。おそらく防衛線の存在を知るまでは勝頼は勝利を確信していたに違いない。しかし無情にも防衛線に突入した将兵は二度と帰ってくることはなかったが、、、



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首洗池 いかにこの地が激戦の地だったかがうかがえる。合戦時は真っ赤にそまったという。


その作戦とは次のようなものであったと想像できる。『大須賀記』によると、織田・徳川連合軍は乗馬は禁じられていた、と書いてある。唯一騎馬に乗ることが許されていたのはおとりとなる大久保兄弟であった。一方武田方は『甲陽軍鑑』によると各部隊の大将や役人のほか、1隊に七、八人が乗馬し、他は徒歩で戦ったとある。つまり前線では歩兵同士が戦っている背後から鉄砲隊によって乗馬しているものを狙い撃ちしたと思われる。それにより指揮官を失った小隊が右往左往していても織田・徳川連合軍は迎撃せずじっと防衛線の中で防備のみ固めていた。そして武田方は攻撃を繰り返して損害を積み重ね、狙撃で指揮官を失い、組織的な戦闘ができなくなった午後2時織田・徳川連合軍の反撃にあい統制のとれなくなった兵は四散し、1万余名の死傷者が出たのだと思われる。もっとも織田・徳川連合軍も6千人余の死者が出ていることから相当徳川にも痛手を受けていて、その後反撃となる第二次高天神城攻めまで6年の歳月がかかっている。